山菜の苦み、人生のうまみ。

これはあくまでぼくの場合の話に限るのだが、これまで、何かができないとき、できない理由についてばかり考えてきたなあと思う。

それはそれである程度は大事なのだが、あまりそればかり考えていると、自分が「できない」ことを正当化する作業にしかならない。
今、自分に残された時間が減ってくるのを実感するようになってはじめて、できるようになるにはどうしたらいいのか、について考えるようになってきた。
そのためには、柔軟に物事をとらえる必要がある。

たとえば、今からいきなりめちゃくちゃ文章がうまくなる、というのは難しい。
で、これまでは、文章がうまくなるということがいかに難しいのか、ということばかり考えていた。
もう年だからとか、これまでの蓄積がないからとか、仕事で忙しかったからとか、そもそもそんな風に仕事ばっかりしないといけない環境が悪いとか、そういう感じ。
でも、ものは考えようで、たしかにいきなり文章がうまくなるのは難しいかもしれないが、はてなブログの「お題」に投稿してピックアップしてもらう、ということなら、何度もチャレンジしていれば、そのうち叶うかもしれない。
あるいは、好きな小説家や随筆家の文章を書き写すだけでも、何か発見があるかもしれないし、それをブログで紹介し続けていたら、誰か読んでくれる人が出てくるかもしれない。
あるいは、どうしても自分ではよい文章を書けないのなら、自分以外のうまい人に書いてもらったり、あるいは文章がうまい人を応援することで一緒に喜びを感じたり、他にも色んなかかわり方がありえる。
つまりは、「こうじゃないとダメ」という凝り固まったやり方にとらわれてしまうことが問題なのだ。

もちろん、ぼくにはまだまだ色んなこだわりがあって、こんな風にやりたいとか、こんな風でありたいとか、理想は色々あるのだけど、しかし色んなオプションを持っている。
手段のオプションも、目標のオプションも、色々と考えられる。
そういう状況にいると、気持ちに余裕ができるし、何か一つがうまくいかなくても、それほど動揺しない。
色んな目標があり、色んな手段がある。
そのうちの一つがうまくいかなかった、ただそれだけのことなのだ。

こういうことを、もっと若いうちに知っていたらなあと思わなくもないが、まあまだまだできることはある。
また、年を取っているからこそ、色んな引き出しがあるわけで、今だからこそ取れる態度なのかもしれない。

これまで、40代ってイヤだなあ、かっこ悪いなあ、人生ほぼ終わりだよなあ、とか思っていたが、今はたぶん、これまでの人生の中でもかなり楽しい時間をすごしている。
まあその楽しさは、20代や30代の頃と、比較ができるようなものでもない気もするが。

山菜のほろ苦さを美味いと感じるかどうか、とも似ているような気もする。