もういいんじゃないかな、と思うこと。

・毎年、4月は調子がよくない。入学、クラス替え、就職、部署異動、こういう時は、新しい環境に早くなじもうとして、いつも気持ちばかりあせってしまって上すべりする。
 ただ今回はそういう感じはあまりなくて、わりと落ち着いた気持ちでいる。
 というよりも、新しい環境になじむことよりも、もっと優先したいことがいくつもある、というほうが正しいのかもしれない。

・このところ、田舎に行ったり、東京に行ったり、色んなところへ出かけている。
 これまでの2年間ほど「不要不急の外出」を控えてきたので、急に遠出が増えると、受け取る情報が多すぎて、その処理が追いつかない感じがする。

・いや、それはあまり正確な表現ではないか。むしろ、遠出をすると、受け取らなくてすむ情報が増える。
 メールやチャットの通知にも「ま、あとで見ようか…」と過剰に反応しなくなるし、過剰に反応しないから、それに対する反応も減る。
 ただぼーっと景色を眺めたり、次の電車がやってくるのをじっと待ったり、建物の中をひたすらぐるぐると歩いたりしているあいだじゅう、ぼくはスマホからやってくる情報に対して鈍くなっている。

・昔は、それが当たり前だった。目の前で起きていることが、実際に起きていることのほとんどすべてであって、その場の情報を受け取り、考え、行動すればよかった。
 今は、目の前で起きていること以外にも、色んなところで色んなことが勃発し、それに対して全部反応していかないといけなくなっている。
 そりゃあ時間がないと感じるわけだ。

・しかしまあ、これほどまでにPCやスマホから押し寄せる情報が多すぎると、もういいんじゃないかなと思ってしまう。
 自分が見たくないものや、見たところでどうにもならないものは、遮断してしまってもいいのではないか。
 それをなんとか現象とか言って、あまりよくないようにも言われるけど、情報の海でおぼれて窒息してしまうよりマシじゃないか。
 そんな風に思ってしまう。

・これは本当に、強く感じるのだが、ぼくは自分にとって大事だと思うことが、もう十分すぎるほどある。
 それらは今後、失われる可能性もあるし、そうなったときのために備えることも色々と必要なのかもしれないが、今のところ「間に合っている」のだ。
 世の中は「いや、それじゃだめだ」「これもやっておかないと」「それよりもこっち」といつまでも騒ぎ続けるのだろうし、ぼくもそういうお祭りは嫌いじゃない。
 ただまあ、もうほどほどにして、情報に対する反応も、自分の関心のあることにしぼって、もっとゆったりとかまえて暮らしたい。

・そのためにどうしたらいいのか?
 一つ思うのは「ムダなこと」「意味のないこと」をすることかもしれない。
 もうちょっと言えば、世間からや周りからは無価値だが、自分にとっては意味のあること。
 こうやって忙しいのに文章を書くのもそうかもしれないし、小説を読んだり、ぼーっとしたりすることもそうだろう。
 そういったことを、他の「世の中では価値がありそうなこと」よりも優先してみることで、ちょっとは呼吸がしやすくなるような気がする。

・まあ、短い人生だ、他人の関心事に振り回されて生きるような余裕はないのだ。