通路を、生きる。

いつもの散髪屋に行く途中、自分の前を人が何人も歩いていくので、きっとこれは駅に向かっている人たちなのだろう、こんなに一度にたくさん、自分と同じ散髪屋に向かっていることはないだろうと思っていた。

ところがその人たちはみんな、ぼくが目指していた散髪屋に先に入っていく。
そのうちの一人は、券売機にお金をつっこみはじめている。
まさかその人だけが髪を切るために他の人たちがついてきたわけではないだろうと、よくよく見まわしてみると、その団体客はどうやら家族のようで、母親らしき人物がまとめてお金を支払っているらしい。
一人分の券が発行されたけれど、また新たにお金を入れはじめた。
すでに待合席には客がいっぱいだったので、これはずいぶん待ちそうだなと思った。
特に急ぎの用事はなかったのだが、じっくりと待つ気になれなかった。
家族分の散髪券をひたすら買い続けている人の後ろに突っ立って、バカみたいにじっとしているのもあまり良い気分でなかった。

そこで思いきって店を出た。
出てみたものの、行く当てがない。
そこで、近くにある他の散髪屋をスマホで調べてみたら、もう一駅先に行ったところに、同じように安い店があるらしい。
どうせ自転車で来ているのだから、一駅なんてたいした距離ではない。
ちょっと足を延ばしてみることにした。

実際に向かってみると、いつもの移動距離から、たった一駅離れるだけなのだが、大きな駅なうえに、いくつも交差点があるせいで、車の量も増え、背の高いビルも多く、急によそよそしい感じになってくる。
途中、ちょっと古い造りだがきれいにしていて、それなりに大きい美容院なのか散髪屋なのかがあって、ちらっと値段表を見たらカットだけで4000円と書いていて寒気がした。
自転車の上とはいえ、ぼろくなったスウェットパンツをはいているのが若干心もとない。
目指していた散髪屋が思ったよりもすぐに見つかったので、ほっとした。
間口の狭い店で、中に入ってみると奥に細長い造りになっていて、客は二人で、椅子も二つか三つかという様子で、FMラジオが流れている。
いらっしゃいませも何も言われないが、勝手に待合席に座ってみて、悪くないなと思った。
安くて、ほどほどに上手で、そのぶん愛想もほどほどという感じの店の雰囲気がする。
なぜそう思うかというと、そういう店ばかり行っているからである。
若い頃は無理をして美容院で高い金を出して切ってもらっていたが、年を取って、ほとんど坊主頭のように短いのを基本とするようになってからは、いわゆる町の安い散髪屋に切り替えたのである。
これにはちゃんと理由があって、そういう散髪屋のほうが短髪の処理が上手だからである。
バリカンを主戦力として思いきり刈って、残った部分をちょっとだけ整える程度なので、そんなことを毎日何十人と相手にし続けている人のほうが上手いにきまっている。
時々、下手くそな人や、要望を聞き損ねたのか聞くつもりがないのかでほとんど丸坊主にしてくる人もいるが、すぐに伸びてくるのでそんなに困らない。
もちろん安いのも大変ありがたいことである。

そんなわけで、どうもこの店も良さそうだと思ってたら、もう前の客が出ていって、どうぞと呼ばれた。
メガネは勝手に自分で外して所定の場所に置くように言われたのでその通りにして、要望を伝えたら、特に聞き返されることもなく、すぐに始まった。
何の問題もない。
メガネをしていないのであまり様子はよくわからないが、ぼんやりしたシルエットを見る限り、悪くないと思う。
ラジオからは聴いたことはないが、しかしどこかで聴いたことのあるような毒にも薬にもならない音楽が流れてくる。
色々と心配するのをやめて、目をつぶって、ぼうっとすることにした。
電動シェーバーではあるものの、うなじもきれいに剃ってくれる。
なかなか良い気分である。
終わった時に、大丈夫か見てください、と言われて、しかしメガネをかけていないのでどうしようかと思った。
普通は、確認する際に、メガネをかけてくださいとか、メガネをどうぞとか言われるのだが、そういうことは特に言われなかった。
面倒だったし、きっと大丈夫だろうと思ったので、そのまま、はい大丈夫ですと言って、暑いタオルをもらって顔をふいて、すっきりして店を出た。
ちなみに帰宅してからメガネをかけた状態で鏡を見たが、やはり問題なかったので、ここで先に付け足しておく。

それで、とてもさっぱりした気持ちで店を出て、自転車に乗り、来た道とは逆方向に進んでいくと、さっきの大きな美容院だか理髪店だか以外にもいくつも髪を切ってくれる店が目に入る。
わざわざ近寄って値段を見てみたが、自分の行った店が圧倒的に安かった。
それで余計にいい気持ちになって、ゆったりとした速度で自転車に乗って進んでいると、行きと違って色んな店や看板が目に入ってくる。
うまそうな店や、面白そうな店、ちょっと変わった建物など、色んなものが目につく。
ぼくはこのところ、色んな地方の町に行くことが多く、行く先々でこんないい店があるとか、こんな面白い人があるとか言っているが、自分の住んでいる地域のことをなんにも見ていないなあと思う。
目的地に行くまでの距離としてしかとらえていない。
まあ、近所というのはそういうものなのだろう。
仕事やら子育てやらで忙しいあいだは、生活というものはどこかに行くための通路みたいなもので、できるだけ短い距離で速く目的地までたどりつけることばかり考えている。
それはそれで人生の一面なのだろうけれども、じゃあ仕事や子育てをしなくてよくなったら、自分の人生には何もない通路だけが残るのだろうか。
それとも、その通路に花でも飾ったり、壁画でも描こうかという気になるのだろうか。
幸いにもというか、不幸にもというか、どうやら我々の世代は仕事を辞めて悠々自適という生き方ができなさそうだから、通路的な生活は続くのかもしれない。
しかし、それはちょっと味気なさすぎるというか、ワンパターンすぎるという気もする。

年を取って、人とのつながりが減ると、さみしくなるのだろうか、まあ、なるだろう。
ぼくはそこまで孤独というものが嫌いではない。
一人の時間が十分にあるからこそ、他人との時間というのもありがたく感じるものだ。
よくパーティーが好きだという人がいるが、ちょっとわからない。
いや、人がいっぱい集まる場所というのも嫌いではないが、好きというのは言い過ぎだと思う。
ただ、長年、家族と一緒に住んでいると、一人の時間が長くなるとやっぱりさみしいと感じるのだろうなと思う。
そういえば、若い頃の自分はそれなりに孤独で、不安で、いつもあせっていた。
今は人生の中で一番孤独でないように思う。
そう考えると、生活は通路だとか、かっこつけているヒマがあったら、もうちょっとその時間を上手に楽しんだほうがいいな、と思ったりする。

家に帰ってから、よせばいいのに、さっきの散髪屋に関する評価をインターネットで調べたら、文句を言っている人が多くて、せっかくのいい気持ちが少ししぼんだ。
そんなもの見なければよかったと思った。