キーボードを、持ち歩く。

久しぶりに、スマホ用のキーボードを使ってブログを書いている。

いくつかキーが壊れてしまっているので買い替えないといけないのだが、壊れるくらいには使い込んでいたんだなと思った。

当時は、今のようにPCを普段から持ち歩くことが少なかったので、出先でもブログを気軽に書けるようにと思って奮発して買ったのがこの携帯用のキーボードだ。

二つに折りたためるようになっていて、スマホスタンドもついている。

このスタンドも薄く折りたたんでキーボードの中に収納することができる。

とてもよくできているキーボードだ。

 

もちろん、他の用途にも使えるのだけど、ぼくはほとんどブログを書くためだけに使っていた。

そのためだけに、けっこういいキーボードを買ったのだ。

キーボードだけではなく、当時、ぼくは色々なことをブログに注いでいた。

一番たくさん注いだのは時間だろう。

だけど、それをイヤだとも辛いとも思わなかった。

一つのことに夢中になって、それについていつも考えているということは、とても幸せなことだからだ。

ブログを書き出してから、世界の見え方が変わっていった。

イヤな目にあっても、退屈な時間をすごしても、「あ、これはブログに書けるな」と思うようになった。

実際には、直接そのできごとを書かなかったとしても、自分の中の何かが変わり、書く内容に影響を与えているぞと信じることができた。

ぼくはブログを書くという行動以上に、ブログを書き続けているという状態に心地よさを感じていたように思う。

 

ぼくはずっと「何か自分が良いことをしている状態」であり続けたいと心のどこかで思っていたように思う。

良いことというのは慈善活動とかそういうことではなく、自分が心から納得してそれを追求するべきだと思えること、という感じ。

しかし、そんなものが簡単に見つかるわけもなく、あれも違う、これも違う、ああなんか違う、と思いながら生きていた。

そんな中で、何か特別な目的があるわけでもなく、共通の目標があるわけでもなく、それでも文章を書き続ける、というシンプルなことに強く惹きつけられていたのだろう。

もちろん、書いた文章を色々な人たちに読んでもらえるということも大きな動機になっていたと思う。

その上で、生活をして、仕事をして、文章を書く、というシンプルな生き方を心地よく感じていたのと思う。

 

シンプル、と何度も書いているので、おそらくぼくはシンプルな何かに関心を持っているのだろう。

他の色んなことに振り回されず、やることが明確で、その道をひたすら追求するようなシンプルな生き方。

一度に色んなことを同時に考えたり、対応したりするのが得意ではないということも関係あるだろう。

また、それと対になるように、何か一つのことに集中して取り組むことが嫌いではない、ということも関係あるだろう。

とにかくそうやって、ブログを書くことを通して、自分は何が好きで、どんな状態を望ましいと思い、どう生きていたいのか、ということをあらためて知っていったのだと思う。

 

ところで、すっかりブログを書くことが減ってしまったいま、ぼくはどう感じているのか。

うーん、わりとシンプルに生きているように思う。

迷いがなくなったわけではないし、苦しみが大きく減ったわけでもない。

だけど、ぼくは今の自分自身の生き方をまるごと受け止めて、人生の中で起こるいろんなできごとをちゃんと味わうように生きているのではないかと思う。

ブログを書くのは減っても、ブログで養ったものの感じ方が生きている。

人生はネタの宝庫だと思って暮らしている。

 

ただ、使い込まれて壊れてしまったキーボードを見ていると、あの時、ぼくが必死に追い求めていた何かが確かにあって、果たしてそれと同じものを今でも見ているだろうかという気持ちになる。

それが良いことか悪いことかは置いておいて、しかし確かに、あの頃のぼくは何かそれまでに触れたことのないものに迫ろうとしていたのではないか。

 

そして、なんとなく、近いうちにそれとはまた出会えるような気もしている。