肩の力を抜いて、空を見上げて。



どうも調子がよくない。



原因は色々とあるが、持病の腰痛が再発して運動量が減って、すっかり体力が落ちてしまったのが大きい。
せっかく自宅でも体を動かすことが習慣になりかけていたのに、また初めからやり直しである。

初めからやり直し、というとなんだかがっかりするというか、割と喪失感がある。
ああいままでやってきたことは一体何だったのだと空しい気持ちになる。

しかしまあ、人間、失う経験というのは定期的にしておいたほうがよいようにも思う。
いずれにしたって、これから年を取れば、もっと色んなものを失っていくわけである。
これだけは大丈夫だろうと思っていたものだって、何かの拍子になくなってしまうことがあるだろう。
そんな時にショックを受けて人生に絶望してしまわないように、普段から、何かを失って小さなショックを受けておくのは悪くないことだ。

それにしても、ぼくらはなぜこんなにも何かを失うことを恐れるのだろう。
体力が失われると、たしかにきつい。
何もかもが億劫になるし、仕事も集中できなくなるし、できることの量が大きく減ってしまう。
じゃあそれで全てが終わりなのかというとそんなわけではなく、減ってしまった許容量の中でできることは残っているし、再び鍛え直せば、少しは体力が戻ってくる可能性もある。
あるいは最悪体力が戻らないとしても、できることが極端に減った中で、できることだけに力を集中することで、今までとは違った世界が見えてくるかもしれない。
喪失はいつもチャンスとワンセットである。
だけど、それは失われてみないと見えない光景だ。
失われてみないとわからないからこそ、失うことは怖いのだろう。

しかしまあよく考えてみれば、ぼくらはもともと何も持っていないのである。
お金を持っているつもりでも、それはただの概念でしかないし、家や土地を持っているつもりでも、それも共同体の中でそういった取り決めがなされているだけにすぎないし、家族や子どもなんてそもそも「持つ」というとらえ方自体が間違っているようにも思う(それはただの比喩でしかない)。
だから、そもそも失うものなんて、本来はないのだ。

調子がよくないときは、何かに必死にしがみつこうとするよりも、肩の力を抜いて、口もポカンとあけて、空を見上げて、流れるままに任せ、どこかに漂着するのをじっくりと待てばいいのかもしれない。

ニュースの読み解き方を、知っていますか。

 

 

 

ニュースを見ると、不安になることばかりだ。

 

 

あきらかに悪いニュースのほうがまだマシで、それよりも、どこそこの企業が黒字に転換したとか、どこかの国の大臣が辞職したとかいった話のほうが厄介だ。

いま目の前の、子どもをそろそろプールに連れて行かなくちゃと思っている自分と直接関係のないニュースを聞かされると、ううんこれはいったいどういう意味のあるニュースで、見る人に何を伝えたいのだろう、と考えてしまい、そうやって考えてもよくわからない自分にうんざりする。

ニュースは残酷だ。

これは今のあなたに関係ない、あるいはすごく関係がある、そういった判断はしてくれない。

わかる人は活用できるし、わからない人はせっかくの機会を逃す。

なのに誰もその方法は教えてくれない。

 

思うに、ぼくの不安というのは、世の中がこれからどうなるのかとか会社はどこへ向かうのかとか家族は大丈夫なのかとか、そういったことが原因というよりも、そのための情報を正確に集められているか、そしてちゃんと対応できているかといったことへの自信のなさから来ている気がする。

ニュースを見ていると、はたしてこれは何が言いたいのだろう?という情報に大量に触れるので、自分の無知や理解力の低さをまざまざと感じさせられ、すっかり不安になるのだ。

 

 

じゃあどうすればいいのか、なんてことはさっぱりわからない。

ただ思うのは、いつでもどんなものにもアンテナを張って、大事な情報を逃してはならぬとずっと集中している余裕が自分にあるだろうか、ということだ。

はるか昔、就職活動をしていた頃、早々と銀行に内定を決めた同級生が、就職活動に必要なものは情報だ、と言っていた。

ぼくはそれを聞いてもまったくピンとこなくて、そのせいで余計に印象的だったのでおぼえている。

就職活動というのはちゃんと要項を読めばそこで何が必要とされているか書かれているし、何社かに1回は筆記試験や面接を受ける機会も得られるし、そこで自分の人となりや経験や志望動機を話すことができる。

いったいそれ以外に、どんな情報が存在するのか、よくわからなかった。

だけどまあ後になって振り返るに、就職活動を開始するよりもずっと前から、ぼくはコピーライターの勉強を始めていて、そこで広告クリエイターたちの話を聞き、すでにクリエイターとして働き出している人たちとも肩を並べて課題に取り組んでいたりした。

だから面接での志望動機も自分の言葉で話すことができたし、これまでやってきたことも、気になっている世の中の出来事も、それに関連づけて考え、伝えることができた。

それを情報、と言ってしまえるなら、なるほど情報はやはり重要なのだろう。

 

 

世の中には、ニュースや人から聞いた話や本に書かれたことをすぐに理解し、大事な情報を読み解いて、自分のものにできるかしこい人たちがいる。

一方でぼくはあっちこっちと手探りで動き回り、色んなところで頭を打ちながらほんの一握りの何かをつかむ、そういうことしかできない。

若い頃でさえそうだったのだから、歳を取ってから急に変われるはずもなく、相変わらずぼくはおかしな方向に進んでは頭を打ち、失敗ばかりを繰り返して生きている。

そんな人間には、世の中にあふれている膨大な情報なんて何の役にも立たないのである。

必要なのは、いま自分が頭を打っている現実をどうするかであり、それに関してできるだけ色んな位置から自分の状況を見て、どうにもこうにもならないと思いこんでいる状態から離れて、ひょっとしたらこんなことができないかとか、別の考え方はないだろうかとか、試行錯誤することなのだろう。

もちろんその時には色んな情報も必要だけれども、それは無闇にぼくの不安を駆り立てるような乱暴なニュースではなくて、古ぼけて倉庫の隅っこでほこりをかぶって眠っているような種類の何かかもしれない。

 

自分にとって必要な情報は、自分にとってだけ価値があることが多い。

だから誰も教えてくれない。

それはひっそりと息をひそめ、誰かに必要とされるかどうかなど意にも介さず、じっと時が過ぎるのを待っている。

むしろぼくはそれを見つけるためだけに生きているような気さえする。

 

だからまあ、ニュースを見るのはほどほどにして、あちこち体をぶつけ、色んなところをすりむきながら、他人にとってはガラクタのような宝探しを楽しみたい。

シンプルが、むずかしい時代。


『ブログのおわり世界のはじまり』 - いつか電池がきれるまで

"だからといって、急に世界放浪の旅とかに出るわけじゃないけれど、自分の残りの人生のために、日常を、もう少し丁寧に生きたいのです"

2020/10/29 12:56

fujipon(id:fujipon)さんのエントリを読んで、ブログを書くことについてちょっと考えていた。



ブログを書く人が減っているのかどうかはちゃんと調べたことがないのでわからないけど、noteに何か書いていますという人はすごく増えたと思うし、そしてもうnoteには書かなくなったという人も増えたと思うし、Facebookをブログのように使ってやたら長い文を書く人もいるし、まあ他にも色んな方法でインターネットに文章を書く人はいる。
その数はたとえば、はてなブログが始まった2011年と比べたらずっと増えていると思う。

じゃあこれからも増え続けるのか、というとなんとなくそうじゃない気がする。
ただの感覚だけど、インターネットで何かの文章を書きたいと思う人のうち、かなりの数の人がもう書きはじめてしまっているのじゃないかな、と思ったりするからだ。
もちろん、まだ書いたことがないだけで、実際に書き出したらハマってしまうような人たちもそれなりに残っているのだと思うけれども、そういう人たちがいつ、何をきっかけに書きはじめるのかはよくわからないし、一生書くことがないままの場合も多いだろう。
とにかく、書き手の数は限られていると感じるのである。
まあこれは、この国の中だけの話であって、世界に目を向ければそんなことはないのかもしれないけれども、いやほんとにただのカンで申し訳ないけど、それでもやっぱり何の利益にもならないのにインターネットに文章を書いてみたいと思う人は非常に限られているような気がする。

何の利益にもならないのに書く、というところがポイントだ。
文章を書くという行為はほとんどの人にとっては何か別の目的を達成するための手段でしかない。
書くこと自体を目的として書く、なんてことはめったにないだろうし、そういう行為を世間では無駄なことと呼び、何の利益も生まず時間だけを浪費する背徳的な行為として蔑み、場合によっては罰するわけである。
もちろんぼくだって書くことだけを目的として書いているわけではなく、誰かが読んでくれるかもしれないと期待している。
だけどまあそれは言い訳というか、おまけというか、強く期待せず、たまたま付いてきたらラッキー、というぐらいのものだ。
やっぱり書くのは楽しい。
それ以上に何かちゃんとした目的があるわけではない。
そんな人が世の中にそれほどたくさんいるとは思えない。

それでまあ、ここからはとても無責任な提言なのだけど、もうそろそろぼくらは「何か立派な目的のある行動」ばかりを大事にするのをやめてみてはどうだろう。
健康のために走る、出世のために飲み会に行く、家族のために働く、そういう風に考えすぎてもしかたない。
走りたいから走る、飲みに行きたいから行く、働きたいから働く、それでいいじゃないか。
そうやって、もっとシンプルに行動してみる。
それがfujiponさんの言う「日常をもう少し丁寧に生きる」ということじゃないかな、と思ったりする。

とかく、あらゆることに目的や意味を求められる世の中だ。
そういうことから自由になれる時間をすごすことが人生の中で一番贅沢なものになっているのかもしれない。

そんなわけで、ブログは書きたいから、書く。

まあそれが一番難しいという意見もあるかもしれないけれども。