悔いのないように生きるのは、むずかしそうだ。

40歳を過ぎたころから、「いつ人生が終わってもいいように、後悔のない生き方をしたい」とは思っている。

思っているが、それはなんというか「意気込み」みたいなものであって、実際に、ちゃんとそういう生き方をしてきたかというと全くそんなことはない。
いつも「一年後は…」とか「半年後は…」とか「来週は…」とかいうように、先の予定ばかりを気にしていて、いま、この瞬間を悔いのないように生きている感覚は、あまりなかったように思う。

ただ、言い訳になってしまうが、「いつ人生が終わってもいいように生きる」というのは、現代社会においては、取るのがかなり難しい態度だとも感じる。
なぜなら、世の中の多くのことが「予定」や「スケジュール」からできているからである。

仕事の会議では、程度の差はあれ、「これから起きること」についてばかり語られる。
子育ても、予防接種の予定から受験や将来のことまで、「これから先」のことばかりで頭がいっぱいになる。
ニュースはいつも「これからどうなる日本??」みたいな特集ばかりだ。

誰もが先のことばかり気にして生活している中で、自分だけが「いや、オレは人生がいつ終わってもいいように、いまこの瞬間を悔いのないように生きる」と突っ張るのはなかなか勇気のいることである。

★

ただ、これは実は両立するのかもな、とも思ったりもする。

まず、「世の中は自分がいなくなっても存在し続ける」という前提に立ってみる。
ぼくがいなくなっても、ほとんどの人は「これから先」のことを気にしながら生き続けるわけである。

一方で、ぼくの人生はどこかで急に(あるいはちょっとずつ)終わる。
これは、ぼくの中だけで起きているできごとである。

そして、ぼくはおそらく(というか必ず)、「これから先」のことを考えていて、それが実現しない状態で、人生を終えるのだと思う。
こんな面白い企画を実現したい、というような大きな挑戦の途中かもしれないし、目の前のコーヒーを手に取ろうしている途中なのかもしれない。
どんな状態であれ、ぼくが「これから先」のことを考えて生きている以上、必ずそういう終わり方を迎えるのだ。

なので、冒頭の「いつ人生が終わってもいいように、後悔のない生き方をしたい」というのは、ちょっと美化しすぎている言い回しだ。
正確には、「いつ自分の人生が、中途半端な状態で終わっても、まあ仕方ないか、と思えるぐらいには一生懸命生きていたい」というぐらいの話なのだ。

ただまあ、そうやって言い方を変えてみると、余計に「あれ、オレ、そんな風に生きているかな…」と感じる節もある。
…とはいえ、まだ、さっきよりは、ちょっと気が楽になるように思うのだが…。

気のせいだろうか。

修行を始めて、651日経った。

小島アジコさん(id:orangestar)から、「そういば100日行はあの後どうなったんでしょう?」という質問をいただいていたので、ちょっとだけ書いてみようと思う。

ぼくは勝手に「毎日、自分への問いをつくって、答え続ける」という「修行」を始めた。
途中段階の記録のようなものも書いた。
inujin.hatenablog.com

今、651日目である。
今日の問いは「どうすれば心の平安は得られるのか?」というもの。

え?その問い、どこから出てきたの?と思われるかもしれない。
説明しだすと長くなるのだが、実はこの問いに対して、そんなにこだわりはない。

これまでは「今日はどんな問いにしようか」と色々考えていたのだが、最近はたまたま目に入ったものや、ふと思い浮かんだものをそのまま使う。
そのくらいこだわりがなくなってきている。
別に、明日の問いが「どうすれば賞味期限が切れたパンをおいしく食べられるのか?」になったとしても、そこまで気にしない(いや、さすがにちょっと気にするが)。

要は、そのくらい、毎日、何かを問い続けるのが当たり前になってきたのだと思う。

これまでのぼくは、ずっと「外から与えられる問い」を与えられ続けてきた。
受験にしたって、仕事にしたって。

クライアント相手の仕事なんて、まさにそうだ。
ずっと、とんちクイズに答え続けるような日々だった。
「普通に考えたらこうだけど、それじゃつまらない…だったらこういう考えはどうだ?」みたいなことばっかり、ずーっとやってきた。
いまだに、時々そういう相談をもらうと、嬉々として相手の問いに取り組もうとしてしまう。
まあ、それはそれで、気分転換にはなるので否定するつもりもないし。

ただ、とにかくこの修行を続けてみて、ようやく、自分から問うことが自然になってきたように思う。
問う、というとなんだか偉そうな感じもする。
要は、自分からモヤモヤしにいく、とでもいうべきか。
誰も悩んでもいないことや気にしてもいないことを、自分から気にしにいく、そんな感じ。

そんな風に言うと、わざわざしんどい思いをしにいくようにも聞こえる。
でも実際は、もっと楽しいものだ。

例えば、さっきの「どうすれば心の平安は得られるのか?」という問い。
この問いを考えているあいだじゅう、ぼくは目に入るものや耳にすることに意味を見出そうとしている。
あ、コーヒーを飲んでいるあいだは平安が得られるかも。
自転車に乗っているあいだは余計なことを考えずにいられるかも。
いやいや、そもそも心の平安なんて、求めようとする限り、一生得られないのでは。
なんてことを一日中、なんとなく考えながらすごす。
これは、けっこう楽しい。

で、寝る前に、今日の時点での結論を書いて終えるわけである。
たぶん、今日の結論としては「平安もあれば波乱もあって人生なのでは?」と書く気がする。
全然、答えになっていない。
でも、ぼくはスッキリしている。
変な感じである。

ええと、何を書こうとしてたんだっけ。
そうそう、「100日行はあれからどうなったか?」だった。

…はい、あれからも続いています。
これまでよりも、もっと自然な感じで。

この「自然」というのが最近、すごく好きな感覚。
「自然」というのは、全部を自然や成り行きに任せる、ということでもない。
むしろ、ここまで生きてきた自分を信じる。
そのうえで、周りとの共存とか融和みたいなのを楽しむ感じ。

ようやく「あ、今の自分はこういうのが好きなんだな」というのが少し見えてきたように思う。

とりとめもないけど、そういう感じ。
いつまで続くかわからないけど、楽しめる限りは続けられたらなと思っている。

これからの、残りの人生をどう生きるか。

orangestar.hatenadiary.jp
p-shirokuma.hatenadiary.com

アジコさんとシロクマ先生のやりとりを読んで、お二人と同年代のぼくも、人生の終わりについて考える時期に来ているのだなあと思った。

さて、「これからの、残りの人生をどう生きるか」。

ぼくはこれまでずっと「出し惜しみ」をしてきたように思う。
少なくとも、40歳を過ぎる頃までは。

共働きで子育てをしていく中で、「これに全力を出し尽くす」という対象を見失っていた。
やるべきことのすべてがバラバラで、すべてが中途半端だった。
いつも不完全燃焼だった。
「ああ、今日もやりたいことができなかった」という感覚が続いていた。

50歳を目前にした今は、それなりに「今日一日、やりきった」と感じることが増えた。
特にこの3年ほどは「出し惜しむ」ことが減ったように思う。

一番大きいのは、単純に体力が落ちたからだろう。
そして、やっと子育てにかける時間も少し減ってきたからだろう。
ただ、それに加えて「これだけはやっておきたい」と思うことを「中途半端でもいいから、始めてみよう」と思えるようになった。

たいしたことではない。
ずっと「修行」をしたいと思っていたけど、「いや、そういうのはちゃんと時間を取らないと」とか「正式な方法でないと」とか言い訳をして、やらずにいた。
でも、これじゃいつまでも始められないと思って、自作の「100日行」を始めた。
今、654日目。
効果があったかどうか?
もちろん、あったと思う。
一日を大事にするようになった。
うまくいった日も、うまくいかなかった日も、ちゃんと味わうようになったと思う。

あとは、仕事でも、「そのうち、できたらいいな」と思っていたことをどんどん着手していった。
その結果、うまくいかなったこともたくさんあったが、それは誰のせいでもなく自分のせいなので、妙に納得できた。

そう、「納得」。
それが、ぼくがずっと欲しかったものかもしれない。

ぼくは何十年も、ずっと自分の人生に納得がいってなかったのかもしれない。
いやいや、もっとやれるはずだとか、もっと自分らしく生きることができるはずだとか、ずっとそう思っていた。
納得してしまったら、そこで終わりだと思っていたのかもしれない。

しかしまあ、すごくつまらないことを言うけど、「納得」には2種類あるような気がする。

1つは、何か具体的に達成することがあって、それに取り組むときに得られる「納得」。
これは達成できたからといって納得するとは限らないし、逆に達成できなくても、ああ、これはやりきったな、と思えたら納得できるように思う。
で、ぼくはこの「納得」ばかり追いかけ続けてきたように思う。

だけど今感じている「納得」というのは、もっと平らなものというか、「あ、これがオレの人生なんだな」と思える感覚というか。

ぼくには好きな音楽があり、本があり、文章を書くときの文体があり、あるいは時間のすごし方がある。
また、困ったことを相談したり、うれしいことを分け合ったり、あるいは、ただ「いま」を共有できる人たちがいる。
いいことばかりではない。
人生の中に反省も後悔も未練も、たくさんある。
そういうものをひっくるめて「自分らしいな」と納得できる感覚が、最近はある。

「これからの、残りの人生をどう生きるか」。

こういう問いにすると、残りの人生に向けて、何か新しいことを始めなきゃいけない感じがする。
もちろん、それは勝手に始めればいい。
なんなら最近は、これまで生きてきた中でも、かなり新しいことをいくつも始めているようにも思う。
だけど、そういうことじゃない気がする。

ぼくが大事にしたいと思うのは、今、まさにこの瞬間、「自分らしいな」と納得して生きているかどうか、かもしれない。
繰り返すが、それはかっこいいとか、ダサいとか、そういうことではなく。
良いことも悪いことも全部足し上げて、全体として見えてくる自分の人生。

…などと書いてみたが、あまり言いたいことが言えた感じはしなかった。
どうやら、詳しいことは、まだよくわからないようだ。

何か無理に締めくくらなくても、ぼくはちょっと「納得」した気がするので、今日はそんな感じで。