もうそろそろ、いいのではないのだろうか。

ぼくは本来、まったく周りが見えていなくて、自分の関心のあることだけに集中していたい人間なのだが、仕事をし始めてからもう二十年近く、まるでそうではないフリをして生きてきたように思う。

自分に対してフェアな言い方をするならば、そうならないように努力してきた、と言ったほうがいいかもしれない。
それでも、自分以外の人たちの多くが、ちゃんと周りを見ているし、イヤなことや興味のないことも丁寧に取り組むし、それらの行動について、ぼくのようにとても無理をして、歯を食いしばって、必死にやっているようにも見えない。

結局、人間には向き不向きというものがあって、ぼくはずいぶん長い間、不向きなことも無理にやろうとしてきたのだろう。
もちろん、そうすることで、なんとか人間らしい生活を保ってこれたのだろうし、最低限の仕事にはしがみつくことができてきたのだろう。

ただもう、すっかり中年になって、そういう無理がだいぶ辛くなってきたというか、こういうのはもっと得意な人に任せたほうがいいのだろうなと思う。
もう十分、無理をしてきたし、がんばってきた。
そろそろ、自分がピンとくることだけに照準をしぼって、それについては妥協せずにじっくり向き合うほうがいいのではないだろうか、という気がしてきた。
いや、正確に言えば4年前から、そう思って、そういう行動を取ってきたはずなのだが、みんなが再び外出するようになり、世間が正気を取り戻し始めてから、ぼくもまた真人間であるフリをするように戻ってしまった気がする。
それは本当に避けたいことである。
周りの環境というのは本当に恐ろしい。

2020年に、ぼくは自分に誓ったのである。
もうこれまでのように周りに無理に合わせて、まっとうな人間のフリをするのをやめようと。
もっと直感を信じ、自分が進みたいと思う方向に、素直に進んでいこうと。
それなのに、もう毎日、毎時間、毎分、色んなノイズがやってくる。
お前は間違っている、お前はちゃんとしていない、お前は恩知らずで協調性がなくてエゴイスティックなやつだというメッセージを勝手に受け止めてしまう。

しかし、もう本当にそういうのは、もういい。
どう思われようと、本当にもういい。
もう残り時間はあまりない。
これ以上、正気でまっとうでちゃんとした世間に合わせて、無理な方向に自分を動かして、何かやったような気になるのはごめんだ、と思う。
自分のことは、自分が一番わかっている。
自分が納得いくように生きていく。
それを一番大事にしていきたい。

感じる力を取り戻そう。
目的だ、目標だ、戦略だ、戦術だと、考えるのが苦手なくせに、考えるフリをするのをやめて、霊感を取り戻そう。
何が心地よくて、何がワクワクして、何が近寄るべきではないのか、触角を働かせてキャッチしよう。
残念ながら、ぼくはそっちのほうが向いているのである。
アホなくせに考えようとする頭が、それを邪魔してきただけである。

そんな風に、最近は思っている。

ぼくは自分らしく、生きてきたかなあ。

ふと、これまでの人生の中で、自分は自分らしいな、と思えていた時期はいつだろう、と思った。

まずもって、幼稚園や小学校の頃に、そういうことを考えていなかったかというと、そんなことは決してない。
いつも「自分はほんとはこうじゃないんだけどな」「もっといい感じのはずなんだけどな」と思っていたような気がする。
もちろん、とても調子のいい時もあったけど、基本的には今の自分ではない誰かや何かに憧れていた。
そして、子どもというのはそういうものだ、ということも認識していたように思う。

ただ、高学年の頃に陸上クラブで走っていたときは、少しは自分に満足していたかもしれない。
もっと良いタイムが出てほしい、と思っていたという意味では、まったく満足できていなかったけれども、そのことに夢中になっている自分のことは好きだった。
正確に言えば、走ることに夢中だったので、自分らしさとか考えるヒマがなかった、ということだろう。

だから中学校に上がったときも、陸上を続けておけばよかったのに、当時の友人に誘われるままにラグビー部に入ってしまった。
ラグビーは残念ながらぼくとの相性が良くなかったようで、根性だけは身についたが、楽しいと思ったことはほとんどなかった。
楽しいと思ったのは、受験勉強だった。
受験勉強は、真冬にグラウンドを上半身裸で走らされたり、筋トレが終わらなければ水を飲ませてもらえないような辛さは一つもなかった。
目の前のやることに集中すれば、それだけ力がついたし、ちゃんと成績も伸びた。
塾の先生と話をするのも楽しかった。
友だちもできた。
当時は、行きたい学校に合格することで「本当の自分」に近づけると思っていたけれども、今考えると、受験勉強をしているときの自分こそ、自分らしく生きていたな、と思う。

高校時代は、まあ自分らしく暮らしていたほうだと思う。
行きたい高校に行くことができたし、そこでの生活は楽しかった。
ただ、そこで勉強を止めてしまったのは今でも残念に思っている。
それは、大学受験に失敗したからというよりも、やっぱり、次のテーマに向けて努力し続けている自分があってこその「自分らしさ」だったんじゃないかなあと思うからだ。
そういう意味では、失意の中で入学した大学での生活もまったく自分らしくなかった。
完全に目標を見失っていた。

ぼくが再び「自分らしさ」を取り戻しはじめたのは、将来の仕事についてようやく考え始めた頃だろう。
コピーライターになりたい、という目標が見えたとき、やっとぼくは行動を起こすようになった。
コピーの学校に通い、毎日文章を書く練習をして、本を100冊読むことを課した。
あの頃に吸収したことは今でもずっと自分の真ん中にあり続けているように思う。

仕事を始めてからの「自分らしさ」はどうだろうか。
20代後半まで、コピーライターになるまでの何年ものあいだは、とてもしんどかった。
目の前で、自分がやりたいことをやっている人たちが活躍していて、それをアシストするような地味な仕事をするのはとても辛かった。
その時のぼくは自分のことを、まったくもって自分らしくないと思っていた。
だけど、今思い返すと、それでもあきらめきれずに、時には会社のトイレにこもって泣きながら、歯を食いしばって広告賞に取り組んでいた自分は、すごく自分らしかったように思う。
一方で、念願のコピーライターになって仕事をしていた頃は、多少は個性的な人間だと思われていたような気もするけれども、はたして自分らしくやっていたのかというと、ちょっとわからない。
でも、まあ色々葛藤していたし、もっと面白い仕事をするにはどうすればいいのかを必死に考えて行動していた。
やっぱり自分らしく働いていたのだと思う。

ぼくが完全に自分を見失ったのはクリエイティブ局から離れてしばらくしてからで、そのあたりのことは色んなところで書いてきたから省略する。
で、そのあとぼくが「自分らしさ」を取り戻すのは、10年くらい経って、すっかり中年になってからだった。
それじゃなぜ、中年のぼくは、自分を自分らしいと思えるのか、ということだけれども、それはやっぱり「挑んでいる」からなのかもしれない。
ちょっと極端なことを言うと、挑む内容はなんでもいいのだ。
それよりも、もっと大事なことがいくつかあるように思う。

ひとつは、やり方を自分で探すこと。
答えはいくらでもある中で、自分で手探りで見つける。
そのとき、ぼくはとてもワクワクしている。

もうひとつは、未知の世界にいること。
ほとんどの人がこれまでに見たこともない、よくわからない領域やテーマへと踏み出す。
そこでは、探検する人同士がお互いに情報交換をしたり、自然な助け合いも生まれる。
インターネットの黎明期には、そういう光景がたくさん見られたはずだ。

最後は、自分の挑戦がきっと花開くはずだという思いこみ。
これは大人になるほど難しい。
すぐに「できない」理由を作ってしまう。
じゃあどうすればいいのか?
たぶん、探索が大事。
自分がワクワクできて、これなら無我夢中になってもいい、と思えることに出会うための探索。
それは、頭で考えるだけじゃ出会えない。
全身で感じて、自分の手足を使って、行動して、たくさん失敗していく中で、いつか出会う。

だけど、本当に大切なのは「挑む」ことよりも、「挑み続ける」ことなのだろう。
ゴールにたどりついたら全部おしまい、ではなく、終わらない旅をし続けること。
終わりなんてない、ということを受け入れること。

でもまあ、そういうことは、実際にその真っただ中にいるときは、なかなか気づけないのが、難しいところなんだけどなあ。

やりたいことをやる、というのはなかなか大変なことだった。

やりたいことをやるって難しい
今年は、これまでやりたいと思ってきた色々なことに、思う存分、取り組むことができた年だったと思う。
もちろん、これがなければもっとやれたはずなのにとか、あれが邪魔しなければもっと先に進めたはずなのにかとか、思わなくもないが、これまでのことを考えれば、ずっとマシだった。
で、実際にやってみて感じるのは、しかし自分の意志で何かをやるというのはとても大変なことだなあ、ということだ。
というのも、当たり前だが、やりたいことをやったからといって、うまくいくわけじゃないし、色んな人たちにある程度の迷惑をかけるのは変わらない。
「やりたくないことを仕方なくやっている」なら、「すみませんね、ぼくもやりたくてやってるわけじゃないんですよ」という顔をしていられるが、今回はそういうわけにもいかない。
どれだけ言い方を変えようとも、「ぼくがやりたいことを実現するために、ちょっと迷惑をかけさせてくれませんか」ということに変わりはない。
それはなかなか大変なことだ。
何の言い訳もできない。
やればやるほど、借金が貯まっていくような感覚だった。
なので、そうやって迷惑をかけた人が「実は、こっちもお願いしたいことがありましてね」と持ちかけてきてくれると、とてもうれしかった。

迷惑かけてありがとう

これはプロボクサーでコメディアンのたこ八郎さんの言葉らしいけど、今年はこの言葉を心の中で連発していた。
迷惑かけてごめんなさい、ではもう謝りきることができないので、ありがとう、と思うことにした。
きっと、かけた迷惑のすべてを帳消しにすることは難しいけど、感謝することならできる。
そう思うと、少し気持ちが楽になった。
感謝という言葉、あまり好きではない、というか、得意ではない。
無理にするもの、わざとするものではない、という風に思いこんでいる節がある。
本当にそれを感じたときに自然と湧き出てくる感情、と思っている。
でも、それじゃあダメだなと思った。
思っていなくても手を合わせて、ありがとう、と口に出してみる。
人に迷惑をかけたということは、その人から何かを預かったわけだから、それをありがたく使わせてもらう。
そのマインドセットを作る行為が感謝なのかもしれない。

つかれまくった

いずれにしても、自分のやりたいことをやる、というのはとにかく言い訳のできない状況を作ることだと思った。
うまくいかないことは、全部自分のせいだと言われてもしかたない状況。
「ああ、自分のやりたいようにやれたら最高なんだけどなあ」という風にずっと思っていたけど、さて本当に最高なんだろうか…とは思う。
あと、はじめは自分がやりたくて始めたはずのことが、いつのまにか別の人のペースで進めることになっていたり、サポート役に回らないといけなくなっていたりもする。
あれ、これってどっち!?みたいな状況にも何度もなった。
要は、純粋に自分のやりたいことをやるなんていうのは幻想かも!?ということなのかもしれない。
その結果、とにかくつかれた。
つかれまくった。
年末は息切れしてしまって、早く休みたい…と思っていた。
もちろん充実感とか満足感はあるんだけど、それ以上に、これまで経験したことのないような疲労感がある。
来年からは、ちゃんと休息を増やして、続けやすいペースを作ったほうがよさそうだ。
まあそれも、やってみて初めてわかったことだからしかたないが。

来年からも続けていけるか

そう考えると、まずは今年はあまり後先のことを考えずにひたすら挑戦しまくったけれども、来年からは、ちゃんとやりたいことを続けていけるように態勢を整えられるかが大事なんだと思う。
今年は本当によくがんばった。
社会人になってから、わがままをここまで突き通したのは初めてかもしれない。
自分を十分にねぎらいたい。
そのうえで、少しペースを落としてでも、この暗中模索を続け、ちょっとでも光明を見出していけるように、自分の体と心を変えていきたい。
粘り強さとか、しつこさとか、耐久力とか、持続力とか、そういうのがフィットしそうな感じに。
そういう変化を、なりふりかまわずに取り入れられるようになったのは、とてもいいことだと思う。
それはとても楽しいことだ。
いくつになっても変わっていける。

まあ、変わらない部分があるのがわかっているから、というのはあると思うけれども。