ぼくは自分らしく、生きてきたかなあ。

ふと、これまでの人生の中で、自分は自分らしいな、と思えていた時期はいつだろう、と思った。

まずもって、幼稚園や小学校の頃に、そういうことを考えていなかったかというと、そんなことは決してない。
いつも「自分はほんとはこうじゃないんだけどな」「もっといい感じのはずなんだけどな」と思っていたような気がする。
もちろん、とても調子のいい時もあったけど、基本的には今の自分ではない誰かや何かに憧れていた。
そして、子どもというのはそういうものだ、ということも認識していたように思う。

ただ、高学年の頃に陸上クラブで走っていたときは、少しは自分に満足していたかもしれない。
もっと良いタイムが出てほしい、と思っていたという意味では、まったく満足できていなかったけれども、そのことに夢中になっている自分のことは好きだった。
正確に言えば、走ることに夢中だったので、自分らしさとか考えるヒマがなかった、ということだろう。

だから中学校に上がったときも、陸上を続けておけばよかったのに、当時の友人に誘われるままにラグビー部に入ってしまった。
ラグビーは残念ながらぼくとの相性が良くなかったようで、根性だけは身についたが、楽しいと思ったことはほとんどなかった。
楽しいと思ったのは、受験勉強だった。
受験勉強は、真冬にグラウンドを上半身裸で走らされたり、筋トレが終わらなければ水を飲ませてもらえないような辛さは一つもなかった。
目の前のやることに集中すれば、それだけ力がついたし、ちゃんと成績も伸びた。
塾の先生と話をするのも楽しかった。
友だちもできた。
当時は、行きたい学校に合格することで「本当の自分」に近づけると思っていたけれども、今考えると、受験勉強をしているときの自分こそ、自分らしく生きていたな、と思う。

高校時代は、まあ自分らしく暮らしていたほうだと思う。
行きたい高校に行くことができたし、そこでの生活は楽しかった。
ただ、そこで勉強を止めてしまったのは今でも残念に思っている。
それは、大学受験に失敗したからというよりも、やっぱり、次のテーマに向けて努力し続けている自分があってこその「自分らしさ」だったんじゃないかなあと思うからだ。
そういう意味では、失意の中で入学した大学での生活もまったく自分らしくなかった。
完全に目標を見失っていた。

ぼくが再び「自分らしさ」を取り戻しはじめたのは、将来の仕事についてようやく考え始めた頃だろう。
コピーライターになりたい、という目標が見えたとき、やっとぼくは行動を起こすようになった。
コピーの学校に通い、毎日文章を書く練習をして、本を100冊読むことを課した。
あの頃に吸収したことは今でもずっと自分の真ん中にあり続けているように思う。

仕事を始めてからの「自分らしさ」はどうだろうか。
20代後半まで、コピーライターになるまでの何年ものあいだは、とてもしんどかった。
目の前で、自分がやりたいことをやっている人たちが活躍していて、それをアシストするような地味な仕事をするのはとても辛かった。
その時のぼくは自分のことを、まったくもって自分らしくないと思っていた。
だけど、今思い返すと、それでもあきらめきれずに、時には会社のトイレにこもって泣きながら、歯を食いしばって広告賞に取り組んでいた自分は、すごく自分らしかったように思う。
一方で、念願のコピーライターになって仕事をしていた頃は、多少は個性的な人間だと思われていたような気もするけれども、はたして自分らしくやっていたのかというと、ちょっとわからない。
でも、まあ色々葛藤していたし、もっと面白い仕事をするにはどうすればいいのかを必死に考えて行動していた。
やっぱり自分らしく働いていたのだと思う。

ぼくが完全に自分を見失ったのはクリエイティブ局から離れてしばらくしてからで、そのあたりのことは色んなところで書いてきたから省略する。
で、そのあとぼくが「自分らしさ」を取り戻すのは、10年くらい経って、すっかり中年になってからだった。
それじゃなぜ、中年のぼくは、自分を自分らしいと思えるのか、ということだけれども、それはやっぱり「挑んでいる」からなのかもしれない。
ちょっと極端なことを言うと、挑む内容はなんでもいいのだ。
それよりも、もっと大事なことがいくつかあるように思う。

ひとつは、やり方を自分で探すこと。
答えはいくらでもある中で、自分で手探りで見つける。
そのとき、ぼくはとてもワクワクしている。

もうひとつは、未知の世界にいること。
ほとんどの人がこれまでに見たこともない、よくわからない領域やテーマへと踏み出す。
そこでは、探検する人同士がお互いに情報交換をしたり、自然な助け合いも生まれる。
インターネットの黎明期には、そういう光景がたくさん見られたはずだ。

最後は、自分の挑戦がきっと花開くはずだという思いこみ。
これは大人になるほど難しい。
すぐに「できない」理由を作ってしまう。
じゃあどうすればいいのか?
たぶん、探索が大事。
自分がワクワクできて、これなら無我夢中になってもいい、と思えることに出会うための探索。
それは、頭で考えるだけじゃ出会えない。
全身で感じて、自分の手足を使って、行動して、たくさん失敗していく中で、いつか出会う。

だけど、本当に大切なのは「挑む」ことよりも、「挑み続ける」ことなのだろう。
ゴールにたどりついたら全部おしまい、ではなく、終わらない旅をし続けること。
終わりなんてない、ということを受け入れること。

でもまあ、そういうことは、実際にその真っただ中にいるときは、なかなか気づけないのが、難しいところなんだけどなあ。