どこにも行かずに、旅をする。

久しぶりに、平日に休暇を取った。

このところ仕事が異様に忙しかったので、休みたい、休みたいと思っていて、待望の休暇である。
下の子はスキー旅行に出かけており、妻は仕事、上の子も午後には用事で外出したので、誰もいない。
さて、一人での時間、どう使おうか。

外はあいにくの雨である。
しばらくスマホをいじっていたが、まったくもってつまらない。
テレビも一人で見るよりも家族で見たほうが楽しいので、見る気が起こらない。
読む本は何冊もあるのだが、読む気にもなれない。
それよりも、やり残しているいくつかの仕事が気になってきた。
しかし今パソコンを開いてしまったら、本当に仕事を始めてしまうだろう。
モヤモヤする。
自分がこういう、手持ち無沙汰で、どことなく不安で、ただ時間が過ぎていくのを呆然と見送ることしかできないことに、ひどく残念な気持ちになる。

さてどうしたものかと考えているうちに眠くなってきた。
眠ってしまうと何もできなくなるので、それは避けたい。
そう思いながら、床にちょっと横になったら、すっかり眠ってしまっていた。
ずっと睡眠不足だったので、当然のことだろう。

目が覚めて、上の子が帰ってきて、それからほどなく妻も帰ってきて、みんなで夕食を食べて、ちょっとテレビを見たら、だいぶ気持ちが落ち着いてきた。
上の子が机の上でなにやら用事をしている隣で、読まずにいた小説を読み始めると、さらに落ち着きが戻ってきた。
スキー旅行のプログラムのSNSに、下の子がリフトに乗ってうれしそうにこちらを見ている写真が上げられているのを見つけた。
子どもというのは遠く離れたところから見たほうが、ずっとかわいいと感じるもののようだ。
帰ってきたら、また騒がしい日々が戻ってくる。

人生は旅のようなものだ、という文章を目にした。
松尾芭蕉もそんなようなことを言っている。
さて、ぼくにとって人生とはなんだろう。
旅なのかと言われると、そのようでもあるし、ちょっと違うような気もする。

なんとなく、ぼくにとっての人生とは、机の上でノートやらパソコンやらを開いて、何かを書いたり書かなかったりしつつ、ああでもないこうでもないと考えている、そんなもののような気がする。
別に、文章を書くことが人生だ、なんてことは全く思わない。
なんというか、自分の生きてきた時間というものがあって、それを土台にして、何かを見つけようとしている。
若い頃のぼくは、その何かを自分だけの力で見つけてみせる、と思っていたような気がする。

しかし年を取った今では、それは自分だけで見つけることはできないと感じている。
他の人たちの時間と交わり、重なり、語り合い、触れ合う中でしか見つからない予感がしている。
ある意味では、人生は旅なのかもしれないが、しかし、道連れがいたり、帰るところがあったりしたほうが、自分には都合がいいなと思ったりする。

ただ、そういうことに気づくためには、モヤモヤとした孤独な時間も役立つのだろう。