自分の幸せを認めるのは、むずかしい。

自分が幸せであるということは、なかなか認めるのがむずかしいなと思う。

ひとつは「え、そんなレベルで、幸せって言っちゃっていいの?」という感じで、自分の成長を自ら止めてしまうことにつながらないか、という不安がある。
他人にそれを言うのはさらにハードルが高い。
ああこの人は成長をあきらめたんだなあ、努力を放棄したんだなあ、なんて思われそうだ。

もうひとつは「こっちはこんなに大変なのに、幸せだなんて、なめやがって」と思われるかもしれない、ということ。
いやあぼくは仕事があって、家族もあって、友人もいて、本当に幸せだと思うんですよねえ、なんてことを言っていたら、インターネットではもちろんのこと、普段の生活でも、誰も口には出さないかもしれないが、不快な気持ちになる人はいると思う。

また、そもそも「幸せ」というのは最上級表現というか、それよりもすばらしいことがなさそうな言葉でもある。
それを自分で口に出しちゃうと、なんというかもう人生も大団円というか、終盤というか、そういうことを予感させてしまって、幸せどころかむしろ不吉にすら思えてしまうかもしれない。
いずれにしたって、とかくこの世は、自分が幸せだとか満たされているとか、そういうことを認めづらい。

だけど、やっぱり、自分が幸せだと認めるのはとても大事なことなのだと思う。
まあ若くて、胸の中に向上心が満ちあふれていて、オレの人生はまだまだこれからだぜ、と思える状態の場合は大丈夫だ。
多少の不幸も燃料になるというか、この困難を乗り越えて、幸せを勝ち取ってやるぞとがんばれたりする。
だけど、ある程度がんばってきて、まあそれなりに報われたこともあるし、そうじゃないこともいっぱいあるよな、という段階になってくると、もはや努力の対価として外から得られる報酬だけでは、やっていけなくなる。
少なくとも、ぼくの場合はそうだった。
そのとき、ぼくに必要だったのは、もっと幸せになるための努力や、その努力のやり方を探すことではなくて、今の自分がいかに幸せであるかに気づくことだったのだ。
なんだつまらない、『青い鳥』の話じゃないか、子どもでも知ってるぞ、ということだけど、当の本人はそれに気づけないのだ。
だって、もう長年、ぼくは「自分は幸せである」と思うことを禁じ続けてきたからだ。

それで、じゃあそんな状態から、いかにして自分の幸せを認めることができるようになるのか、という話になるが、ぼくの場合はそれを他人から言ってもらえた。
ある方から「あなたは十分に幸せだと思います。仕事があって、大事な家族がいて、その上で人生をもっとよくしようと思えている」と言ってもらえたことがすごく大きい。
そうか、オレは十分に幸せなのだ。
そう思ったとき、つきものが落ちたように、ほっとした気持ちになったのを今でも覚えている。
だからみんな他人から幸せ認定をしてもらえればいい、なんて乱暴なことを言うつもりはない。
ただ、自分が幸せであることは、自分一人の力ではなかなか気づくのは難しいんじゃないか、と思うのだ。

まあそのために人は小説を読んだり、映画を観たり、音楽を聴いたりするのかもしれない。
また、たとえば、自分にとって心地いい内容のものだけが良い小説とは限らない。
読んだあとになんともいえない不安な気持ちになったり、当たり前だと思っていたものが崩壊していく疑似体験をしたりすることも、意味があるかもしれない。
その時、自分がいまここにいることの確かさや、誰かとつながっていられることの安心感が、とても大事に思えたりするからだ。
あるいは、日常から離れて旅をしたり、森の中を歩いたりして、普段はあえて無視している自分の感受性を取り戻すことも役立つかもしれない。
空気がおいしい、緑が美しい、空が青い、そして自分は生きている。
そういった当たり前のことに気づくことができるかもしれない。

だけどまあ難しい。
そうやって一度自分の幸せに気づくことができたとしても、また日々の多忙の中で簡単に見失ってしまう。
だから、こうやって、何度でも自分で思い出すことが大事なような気がする。

ああ、ぼくは幸せだなあ。