大人の、遊びかた。



半年間やってきた仕事がひと段落して、ほっとしている。



まあ、ここからが本番だったりするので、何も終わっていない(むしろ何も始まっていない)。
だけど、ここまでの試行錯誤を振り返ってみて、たくさんの収穫があったなあと思う。
全体の運営についてもそうだけど、問いの投げかけかた、共同作業に関するアイデア、うまくいかないときの軌道修正のしかた、そして何よりもみんなが夢中になって取り組むための工夫、そういったことに関して新しい発見がたくさんあった。

最近は、ぼくがやっていることは遊びを考えることなのかもしれないと思いはじめた。
みんなが夢中になって遊べる遊びを考えて、やってもらって、ちょっとここが盛り上がらなかったねとか、ここはもっと難しくしたほうがやりごたえがあるよねとか、ここに収集要素があったらもっとやりこみたくなるよねとか。
で、みんながムキになって遊べたらそれだけ物事は先に進むし、かつ深くまで考えられたものになっていく。

仕事は遊びだ、というと怒る人がたくさんいそうだけど、それは、遊びは「やってはいけないもの」「無駄なもの」だと思っているからだろう。
ぼくはそうは思わない。
遊びとは、目的と手段が完全に一致した状態のことだ。
ごっこをしている子どもたちは、なにも、身体をきたえるためにとか、戦略性を身につけるためにとか、そういう別の目的のために鬼ごっこをやっているのではない。
ごっこをするという目的のためにだけ、鬼ごっこをしているのだ。
やるべきことと、やっていることが完全に一致している。
それは、ぼくらにとって、理想の状態じゃないだろうか?

仕事が遊びだというと怒る人は、何か、仕事というものがすごく神聖なものだと思っているんじゃないだろうか。
たしかに人の命に関わる仕事や、たくさんの人の生活をささえているような仕事は、その恩恵を受けられるぼくにとっても、とてもありがたいものだ。
だけど、医師をやっている友人たちは、仕事はおもしろいよ、とはっきりと言うし、生活基盤を作っている会社で働く知人も、楽しく働くことを一番大事にしている、と言う。
もちろん、医療は医師だけで成立しているものではないし、生活基盤はたくさんの人々の働きによって支えられている。
むしろ、彼らと違って、仕事は遊び、つまり目的と手段が一致しているもの、なんて思っていられない人たちがたくさんいることが問題なのだろう。

それでも、いや、だからこそ、自分がやっている仕事が、難しくて、苦しくて、辛くて、しかし何やら非常に重要なことであると思いすぎるのを、やめたいなと思う。

苦しくても努力を続けていれば、それが実ることはある。
そのことを多くの人が、人生の中で体験していることだろう。

でも、どれだけ努力しても、うまくいかないこともある。
やり方がまずかったのかもしれないし、努力の量が足りなかったのかもしれないし、そもそも目標の設定を間違っていたのかもしれない。
いずれにしても問題が、そこで発生する。
必死に努力してもうまくいかなかったとき、ちくしょう!これだけがんばってきた苦労と時間を返してくれ!と誰もが思う。
その選択をしたのは自分であって、努力を実らせられなかったのも自分なのだ。
なのに、誰かのせい、何かのせい、自分以外のせいにしてしまう。
いや、まだ自分以外のもののせいにできるならマシで、すべて自分の責任だと強く思いすぎるのが一番ダメだ。
責任なんて誰も持てない。
やってみたけど、うまくいかなかった。
あるのはその事実だけなのだ。

結局、世の中にはたいした意味なんてなくて、そこには神聖な仕事もなければクソみたいな仕事もない。
いま何をして、どう生きるか、それだけだ。
だったら、この瞬間をどれだけ納得いくように生きるか、そのことだけを追求したいなあと思う。
一緒に仕事している人たちは楽しんでいるのか、取り組んでいることは面白くてやりごたえがあるのか、何より自分は夢中になれているのか。
たぶん、ぼくは最近、そういう視点で仕事をしているように思う。

子どもと違って、大人を遊びに誘うのはむずかしい。
それは何のために必要なのかとか、どれだけ儲かるのかとか、どんな意味があるのかとか、本当は興味があるくせに色々と理由をつけて動かない。
そんな大人たちが、つい夢中になってしまうような遊びをもっと考えていきたい。

さあ、まだまだ遊ぶぞ。