大人は、うまく迷子になれない。



ものごとを目的と手段に分けることができる、というのは人類にとってとても重要な能力だなあと思う。



死なないためにはどうすればいいのか。
子孫を残すためには何が必要か。
競争に勝つためにはどの武器が有効か。

ぼくらはそうやって、目的に合った手段を見つけ、その手段の精度を上げるためのそのまた手段を作り、そのまた手段を作り、どんどん世界を複雑で、安定した、これまでよりもずっとマシなものへと変えていったのだろう。
仕事をするときも、相手にいつも必ず目的を伝えるし、目的がわからなければすぐにたずねるし、たずねてみて意外と目的が不明瞭だった場合は、そこにさかのぼって考え始めたりもする。
いや、それどころか、ぼくらは子どもの頃からずっと目的と手段を区別する訓練を受け続けている。

お菓子を食べたかったら、手を洗いなさい。
学校に合格したかったら、勉強しなさい。
安定した生活を送りたいなら、良い就職先を見つけなさい。

何か目的があって、それを実現するための手段を見つけて、それを使ってなんとかゴールに近づこうとする。
そんなことは、ぼくらにとって当たり前すぎることだ。

だけど、ぼくらは何のために目的と手段を分けるのだろう。

それはたぶん、人間は、今よりも先のことを考えることができるからだと思う。
目の前のことがどれだけ楽しくても、それに夢中になっていたら食べるものがなくなって飢え死にしてしまう。
アリとキリギリスの寓話。
あれは寓話ではなく、ぼくらの中に埋め込まれた思想というか根本的なプログラムなのかもしれない。

だから、ぼくはいつも、ただぼんやりとすることや、楽しいだけの時間をすごすことを恐れている。
いつも自分がやっていることに手段としての意味を求めてしまう。
ただ小説を楽しんでいるだけなのに、これは教養を得るための手段だと自分に言い聞かせ、ただおしゃべりを楽しんでいるだけなのに、これは人間関係を深めるための活動なのだとこじつけようとする。
楽しいことは楽しい、好きなことは好き、ぼんやりしたいというのは本当にぼんやりしたいだけ、そう堂々と言えない。
言えない、というと誰かのせいにしているようだが、それはむしろぼく自身が禁じているように思う。
目的を持たない行為を、ぼくはどこかで自分に禁じているのだ。

ブログを書いていると、文章をなぜ書くのか、という話題に定期的に出会う(そして最近はあまり出会わなくなった)。
それで、その問いに答えるなら、ぼくの場合はやっぱり書きたいから書くのであり、そこに本当は目的なんて存在しないような気がする。
書くことで考えるとか、書くことで問いを立てるとか、人に読んでもらいたいから書くのだとか、まあ色んな言説はあるけれども、全部あとづけのように思う。

ぼくは何か大きな目的を前にすると、すごく疲れることがある。
その目的を達成するまでのプロセスを一気に想像して、あれもやってこれもやって、このへんで一度挫折しかけて、だけどこうやって復活して、最後はこんなできごとがあって・・・というのが頭の中でざっと一巡りして、なんだかぐったりしてしまうのである。
でも実際は1ミリも物事は進んでいない。
そのことにまたぐったりしてしまう。

若い頃はそれでも馬力があったし、何よりも経験が少なかったから、自分が想像していたこと以上のトラブルにもうれしいことにも出会えて、それは全部自分の大切な経験になった。
だから、無我夢中に突っ込んでいけた。
そうだ、その無我夢中というのがとても大事だと思う。
自分の知らないこと、この先にどんなことが起こるかわからないこと、そういう状況に向かっていくときは、人は「目的と手段」という呪縛から離れられるような気がする。
だって、今自分が取り組んでいることが、果たして目的と合致しているかどうかがわからないのだから。
あるいは、そもそも目的だと思いこんでいたことですら、本当の目的ではないかもしれなかったりするのだから。

ぼくにとって書くことというのは、そういう感じなのかもしれない。
もちろんはじめは、何か主題があったり、関心のあることがあったりして書きはじめるのだけど、気がつくと、あれ、俺は一体何を書こうとしていたのだっけ、一体どこへ向かおうとしていたのだっけ、とすっかり周りが見えなくなることがある。
その時、状況は書き進めることによってしか変わらないし、それが良い結果となるのか最悪の結果となるのかもわからない。
だけど、とにかく書いていくしかない。

ぼくはそういう状況に自分を追い込みたいと心のどこかで願っているのかもしれない。
目的と手段によって几帳面に整理された世界のどこかほころびを見つけ、その先に広がる混沌とした光景を見たいと願っているのかもしれない。

しかし残念ながら、ぼくは世間では「大人」であり、ゲームをしている人たちが崖に転がり落ちないようにつかまえる役割もしなきゃいけない。
もちろん自分だってライ麦畑で走り回ることはあるけれども、どこか頭の片隅で、あああっちに行ったら落ちるなとか、こっちはこのへんで止まっとかないとやばいなとか、いつも考えながら、遊んでいるふりをしているように思う。

書くことというのは、そんなぼくに残された、最後の場所であって、そこで何が起こるかなんて考える意味はないし、何が起こるかわからないからこそ、書き続けるのだろうと思う。

まあそれは、丁寧に整備された畑があってこそできることなのだけれども。