音楽が止まっても、ダンスは続く。

 

 

 

ここのところずっと体調が良くなかった。

 

 

 

いつもなんらかの力によって地面に全身が吸いつけられているみたいで、何をするにも体がだるく、物事を進める力がすっかり失われている感じだった。

在宅勤務がはじまってから何度か辛いなと思った時期はあったがそれなりに乗り切ってきて、ここにきてようやく本格的なコロナ疲れかな、とも思う。

 

それで、ある朝、ちょっと気分転換をしようと思って、仕事をはじめる前に、学生の頃にやっていたダンスをしてみたら、これがとても気持ちよかった。

かける音楽はア・トライブ・コールド・クエストとデ・ラ・ソウル

ニュースクールと呼ばれた90年代のヒップホップ。

いま聴いてもやっぱり気持ちいい。

昔の振りを思い出しながら、こうだっけ、いやこうかな、とかやっていたら、30分ぐらいですっかり体があたたまってきて、汗もかいて、さあ今日一日をはじめるぞ、とスイッチが入った。

 

 

学生の頃は、音楽というものは神聖な存在だった。

仕事の前の軽い運動のためとか気持ちをリフレッシュするためとか、そういうおっさんのつまらない生活のための手段ではなく、音楽は音楽のために存在していた。

ダンスというものも、ぼくにとっては、音楽を崇拝し、その素晴らしさを賞賛する方法のひとつでしかなかった。

ぼくのダンスの先生もやっぱりヒップホップという音楽に魅せられてダンスを研究している人で、彼が教えてくれるダンスは、観衆の目を奪うような派手な動きやアクロバティックな技ではなく、リラックスして曲を楽しんでいるとつい体を動かしたくなる、あの感覚の延長にあったように思う。

なんというか、彼も、ダンスというものは音楽を楽しむ手段のひとつであって、その楽しさを表現したいと純粋に考えていた気がする。

それくらい、ぼくらは無防備にヒップホップという音楽が好きだった。

 

 

年を取ると、何かを無防備に好きになる、ということは、わりと危険なことだ。

そのためになんのリターンも期待できない消費にハマったり、あるいは好きなんだからいいじゃない、という理由でやりがい搾取にあったり、あるいは自分の残り少ない人生の時間を注ぎこんでしまって後には何も残らない、なんてことにもつながりかねない。

いつもぼくらは色んなことに対して投資と収益の差額を考え続けて生活している。

だから、好きだからいいんだと赤字を出し続けるような行為を避ける。

実際にそのとおりだ。

学生の頃にあれだけ多額のバイト代と勉強するはずだった時間をヒップホップへと投資して得られたリターンは、中年になってからの朝の軽い運動手段。

ただそれだけなのだ。

とんでもない無駄としか言いようがない。

まったくもって、何かを無防備に好きになるということのなんと危険なことか。

 

 

ダンスの先生もぼくも、そういう態度で音楽やダンスに接していても、それでは食べていけないことを十分に確信していたと思う。

先生はデザインの勉強をしていたし、ぼくはコピーの勉強をしていた。

ぼくはそこから文章の楽しさを知り、本を読み漁るようになり、ヒップホップを少しずつ聴かなくなり(ご存知のとおり、大量のラップを聴きながら小説を読むのはわりと難しい)、そのあとジャズをちょっと聴いている時期があったが、そのうちすっかり音楽自体を聴かなくなった。

その文章を仕事にすることができた時期もあったけど、いまやそれもすっかりやらなくなって、こうやってブログで書く時間が残っているだけだ。

つまり、ぼくの小さな人生経験の中では、好きなことへの投資に対するリターンはまったく回収できていないのだ。

じゃあぼくはヒップホップに出会うべきではなかったのか。

文章に出会うべきではなかったのか。

 

まあそんなことはさっぱりわからない。

当たり前だけれども、人生というのは計画どおりに行くものではないし、ぼくには家業を継がないといけないとかいった具体的なミッションもなかった。

別に何をやってもよかった。

そんな中で、いくら投資をしてもなんの見返りもないものが世の中にはたくさんあることを知り、その経験をもとに物事を見極めようとしたり、それでもやっぱり続けたいと思うものをわずかながら残したり、それをなんとか収益性のあるものにしようと四苦八苦したり、やっぱりダメだとあきらめたり、そういうことの繰り返しとしてのぼくの人生がここにあるだけだ。

 

ただ思うのは、そうやっていくつかの取り返しのつかない失敗をした結果として、いまのぼくがいることは事実であり、それでもまだ何かを無防備に大切にしたいと思えることがあるなら、もう投資とかリターンとか言わずに、それは大事にしていってもいいのじゃないかな、ということだ。

 

何を人生の収穫と考えるのかは、その人の自由なのだから。