下の子が木でできたけん玉が欲しいという。
近所の店に売ってるだろうと思って二人で自転車に乗って出かけたが、プラスチック製のものだけで、木製のものは置いてなかった。
通販で買えばいいと思ったが、子どもはどうしても今日中に欲しいという。
子どもというのはそういうものである。
欲しいと思ったらすぐに欲しいものであり、たとえばじゃああと一週間待つことができるのなら、普通のけん玉ではなくて、金色に輝く特別なけん玉を買ってあげよう、とか持ちかけたところで受け入れるはずもない。
投資とリターンなんていう発想もない。
子どもは今日を生きているのである。
それでふと、せっかく自転車に乗っていることだし少し遠くまで足を伸ばしてみようと思いつき、二駅以上先にあるホームセンターまで行ってみようということになった。
そこで木のけん玉を見た記憶があった。
道の途中で、しまったスマホを持ってくるのを忘れた、と思ったけれども特に困ることもないのでそのままペダルをこいでいく。
日差しは強いけれども空気はひんやりとしはじめていて、坂を下ると風が気持ちいい。
自転車をこぎ進めて幹線道路のそばまでやってくると、びゅんびゅん飛ばす車の排煙が臭う。
高架道路にはばまれて空が小さくなり、あたりは暗くて地面はガタガタする。
こんなところまで来て大丈夫なのかと後ろの席から声がするので、もう来てもうたからしゃあないとこぎ続ける。
こういう殺風景な場所のどこかに、普通だと気づかないような扉が隠されていて、それを開くと中で秘密結社の会合が行われていたら面白いなとちょっと思った。
ぼくが結社の元締めだったら、人里離れた辺境の地よりも、こういう場所を選ぶかもしれない。
車は大量に走っているのに人の姿がほとんどないし、そこで何か重要な決定がなされたとしても、あたりに響く不機嫌なエンジンたちのうなり声がかきけしてくれるだろうから。
そんなことをモヤモヤ考えていたら、思っていたよりもずっと早くホームセンターの看板が見えてきた。
自転車を降りると、下の子はうっほーと叫んで一人で先に店内に向かって駆け出していった。
玩具の棚に行ってみると、ここでもやっぱりプラスチックのけん玉だ。
ここにもないねと言ったら、いやこっちにある、と子どもが下のほうにかかっている木のけん玉を指さした。
子どもの身長だとちょうど目の前にあったようだ。
たいして広くもない玩具の棚にわざわざプラスチックと木の両方のけん玉を置いているのも変わっているなと思いながら値段を見たら、持ってきている現金では足りない。
カードもスマホも家に置いてきた。
よし、ここに売っていることはわかったけど思っていたよりもけっこう良い値段なので、一度帰って買ってもいいかお母さんに聞いてみよう、と言ったら、意外と素直に受け入れたのでホッとした。
どうも最近はこういう行き当たりばったりな行動を取ることが減ったな、と思った。
ぼく自身はどうしようもなく計画性がなくて、行き当たりばったりで何が悪い、予定どおりの人生の何が面白い、と思って生きてきたのだけれども、それはぼくがぼくのことだけ考えておけばよい頃だけに許されたことだったのかもしれない。
家族や一緒に仕事している人のことを考えるならば、行き当たりばったりというのは相手に迷惑をかける、悪の思想である。
先のことをよく考えて、あらゆる可能性を検討し、最善の選択をする、ということを繰り返していく態度こそが大事なのである。
それはわかっているのだが、時々は思いつきで行動してみることで満たされるものもある。
ただ、妙なことに、普段は予定どおりの生活をして、割と窮屈な、まじめな人生を送っている時のほうが、そんな生き方の延長線上にふと生まれた、たまの思いつきや行き当たりばったりな選択によってうまい結果がもたらされる場合が多いような気もする。
あるいは、俺は破天荒なんだとか、心のおもむくままに生きているんだとか言っている人に限って、意外と私生活はつましいものだったり、物事に対してとても常識的に取り組んでいたりしている。
その人の破天荒ぶりというのはむしろそういうまじめな態度で何かに向き合い続けられる度合いの強さとか、あきらめの悪さとか、そういうところにあらわれていたりする。
そのへんは子どもが何かに夢中になっているときのような純粋さよりも、もっと複雑で、忍耐強く、したたかで、だけど自分がやっていることが報われるかどうかまでは考えてもしかたないというあきらめというか祈りというか、そんなものの存在を感じる。
自ら行き当たりばったりになるのではなく、計画的に、慎重に、まじめにやっていった結果、行き当たりばったりでやるしかない、という結論に出会うわけである。
なんとなく、そのへんを忘れて無邪気に、行き当たりばったりな生き方を礼讃するのもちょっと違うのだろうな、と思う。
結局、ホームセンターから一時帰宅して、妻と子どもが話し合い、買ってもよいということになったので、またホームセンターへの道を往復した。
また帰宅して、昼食をとって、木のけん玉のコンコンという気持ちのいい音を聞いていたら、いつのまにか眠ってしまっていた。