ぼくの、牛。

100日行をはじめて30日目。

この手製プログラムは「十牛図」にインスピレーションを受けて作った。
十牛図とは、人が悟りを開いていくプロセスを十の段階に分けて図と詩で示したものだ。
悟りを「牛」にたとえ、牛をどのようにして捕らえ、自分のものにしていくかということが描かれている。

この図の面白いところは、牛を捕らえ(得牛)、飼いならし(牧牛)、自分の家に連れて帰ってくる(騎牛帰家)というところではまだ終わらない、ということだ。
なんとこのあと人は、せっかく苦労して連れて帰った牛の存在を忘れてしまう(忘牛存人)。
さらに驚くべきことに、そのあと、自分自身の存在も忘れてしまう(人牛倶忘)。

ちなみにそのあと「返本還源」といって、自然と調和し、ありのままの世界が見えてくるらしく、そこはまあいわゆる悟りの境地なのであろう。
そして十牛図の最後の段階は「入鄽垂手」ということで、再び世俗の世界に入り、人々に安らぎを与え、悟りへ導く活動に入っていくそうである。
まあ、そのあたりはわりと一般的な話かなと思う。

とにかく、ぼくはこの「牛の存在を忘れる」、ひいては「自分自身の存在も忘れる」という状態が、一体どんなものなのか、体験してみたいと思った。
それは、ぼくが勝手に作った100日行のプログラムがちゃんと機能するのであれば、61日目あたりから顕れるはずだ。
さてどんな変化が起こるのか。
楽しみである。

ところで今日は30日目で、「見牛」の最終日である。
「見牛」とは、自分が目指す具体的な目標が見えはじめ、小さな変化を感じはじめる段階のはずである。
しかし、ぼくはこの「見牛」のステップの中で、そもそも自分はいったい何を求めているのか、ということを見失ってしまった。
かつてないほどの年末の忙しさと、色んなことがうまく進まない停滞感の中で、混乱と悲しみと怒りで、何も考えられなくなってしまった。
100日行などやっている場合じゃない、とも思った。
だが、ここまでやってきて、やめるのはもったいない気がして、最後にちょっとだけ立ち戻ってみようと思い、一番初めのステップ「尋牛」の作業をもう一度やってみることにした。
「尋牛」は、この100日間で自分が得たいこと、成し遂げたいことを描く段階である。
そこでぼくはもう一度、ぼくが捕らえたい「牛」とはいったい何なのかをじっくりと考えた。

どのようにして考えたのかは、またゆっくり話すとして、今のところのぼくの結論はこれだ。
ぼくの「牛」とは、感情なのである。
感情というとちょっと雑だが、要は、自分の感情を自分の味方につけるということだ。
良い感情だけでなく、悲しみや怒りとも仲良くなり、自分が前に進むためのエネルギーとして生かすことができるようになる。
ひいては、自分だけではなく、周りの感情もエネルギーとして受け取ったり、持ち合ったりして、もっとマシな状況を作ることに役立てる。
精力善用自他共栄、である。
これだ、と思った。

では、この牛をどうやってひっ捕らえるのか。
それが今からのぼくの課題である。
段階は「得牛」。
さあ、捕まえられるのか。
それとも取り逃がして、また「尋牛」に戻るのか。
まあ、それも悪くないだろう。

人生に答えなんてない。
好きに生きればよいのである。