土曜日、まだ日が暮れる前にスーパーに買い物に行った帰り、空を見ると、雲がきれいにらせんを描いているのに出会った。
背景となる空の色はうす紫と桃色が混じっていて、何か地上とはまったく違う物語が始まっているようだった。
最近、空を美しく感じることが多い。
自転車で下る坂道の先に大きな入道雲が待ちかまえている様子もたまらないし、厳しい太陽光線を降り注いでくる真っ青な空も嫌いにはなれない。
もっと言えば、世界そのものが美しいと思うことが増えた。
でも、昔から、好きというかずっと記憶の中に残っている風景は変わらない気がする。
まずは西陽の当たる住宅街。
小さなすべり台のある公園や、わずかに坂道になっている道路沿いに家が並んで立っている様子。
一つ一つの家は形も色も大さも違うのに、西陽に染まってしまったせいで、どれも同じ物質でできていて、すべてが溶け合ってひとつの世界となって、そのまま時間が止まってしまったかのよう。
ぼくはそこで誰かを探している。
あるいは、誰かを訪ねるためにやってきている。
そんな場面。
それから、夏の暑い日に、それほど高くない山のふもとの道を歩いていると、ちょっとした体育館があって、そこから剣道の稽古をしている子どもたちの声が聞こえる場所。
声は聞こえるのだが、周りには人っ子一人いない。
体育館の中をわざわざのぞきこんだら、子どもたちが稽古に励んでいる様子が見えるのだろうか。
でも、ぼくはそれを確認しようともせず、ただ体育館の前を通り過ぎるだけ。
誰かと話しながら歩いていて、話を止めたくないからなのかもしれないし、そもそも誰とも一緒にいないのか、そのあたりははっきりしていない。
あとは、これが一番はっきりしていないのだが、何かの器とか箸とかをとてもきれいに並べてある趣味の店なのか工房を兼ねたところなのかわからないが、すべて木でできた空間の中にいる。
マリンバのようなコロンコロンという音がしていて、それが実際にその場で出されている音なのか、スピーカーから聞こえてくるものなのかはわからない。
それはとても心地よくて、ああこういう場所を自分は求めていたんだという感覚がある一方で、それは自分の外からやってくるもの、何かこの世とはちょっと違うところのものを見せられているような少しの不安もある。
ひょっとしたら他にもあるかもしれないけど、この三つの場面は、それぞれその正体はわからないまま、ずっとぼくの中に残り続けている。
それらは何か幼少の頃の実体験と関係があるのかもしれないし、ないのかもしれない。
それまで行ったこともない場所(なんなら日本ではない場所)に行ったときにふと思い出したりもするので、実際の経験とは離れた、何か別のものなのかもしれない。
あるいは今後、新たに思い出す場面は増えていくのだろうか。
無理にそうあってほしいというわけではないが、できれば、もう少し増えてもいいのではないかな、とも思う。