パラレルに、生きる。

 

 

 

 

toya.hatenablog.com

toyaさんのこのエントリを読んで、ぼくはパラレルなのかねじれなのか混線なのかわからないが、とにかく同時に2つ以上のことを抱え続けてる人生だなと思った。

 

古くは塾と学校のかけ持ちから始まっていて、なぜ塾を先に言ったかというと、そっちのほうが自分の本拠地だと思っていたからである。

 

実際は学校にいる時間のほうが長いが退屈だし孤独で、塾にいる時間は勉強するのは苦しかったがやればやるほど結果が出て、大学生の先生たちの大人びた会話にまじったりするのも楽しくて、居心地がよかった。

 

つまりはそこを本拠地と思うかどうかは居心地がいいかどうかで、それは大人になっても変わらないかもしれない。

 

じゃあ居心地がいいって何なのか、と考えるに、ぼくの場合は、はっきりいって、自分が大事にされる場所だ。

 

だが誰もがそういう扱いをされる場所というのはなかなかないし、運よく見つかった人はそこから離れることがない。

 

誰かが大事にされる場所というのは、誰かは大事にされない場所であることがほとんどだ。

 

だから、いくら自分の本拠地を探してまわったところで、色々な人が集まっている場を居心地のいい場にしようと思うなら、そこで自分が大事にされる理由を自分で考えて、自分で作らなきゃいけない。

 

しかしいつでもそれがうまくいくわけじゃないから、パラレルになる。

 

パラレルに自分の居心地のいい場を探し続ける。

 

 

もちろん、そうじゃない、生きるためにやらないといけないライスワークと、本当にやりたいことをやるライフワークを分けて取り組む生き方がパラレルだ、という見方もあるし、ぼくもそれはそれでその通りだとも思う。

 

あるいは、会社と家庭の両方を行き来している時点で十分にパラレルだとも思う。

 

思うに、パラレルという概念が広まることで、多くの人が複数の違う価値観を持つ共同体に関わりを持っていて、誰もが今この場の目的に強く賛同し全てを賭けて取り組もうとしているわけではない、という状況が見えやすくなっただけじゃないだろうか。

 

ぼくはそんなパラレルを前提とした世の中は生きやすくていいな、と思うし、一方で、だからこそパラレルではなくひとつの世界に集中する人の存在感が高まっていくかもしれない、とも思う。

 

世の中がパラレルになっても、一人ひとりの資源は有限で、だからこそ何に自分の時間を使うのかはすごく大事になってくるし、それを自分で決めて、自分で選ばなきゃいけない時代になっている。

 

まあそれでも、やっぱりぼくはそういう世界のほうが、逃げ出す先のない閉ざされた世界よりはずっとマシだと思うし、今の不遇を誰かのせいにしながら生きるよりは、あーもう精一杯やったけど難しかったな、悔しいなと思いながら、しかしギリギリまであがいていたいなと思う。

 

そのあたりのことは、時代が変わっても、そんなに変わらないのかもしれない。