アイデアが自分のものになるには、思っている以上に時間がかかる。

今日は午前中は全然仕事をする気になれず、これは変に抵抗してダラダラとした時間をすごしてもしかたない、と思って、確認するべきことだけ確認してから、ちゃんと休むことにした。
午後すぐにあった打ち合わせでもまだぼんやりしていたが、そのあとじわじわとアイデアが沸き上がってきて、上司と話しているときに色々とヒントをもらって、おーこれだーという感覚が久しぶりにやってきた。
ぼくの場合、アイデアというのはいきなり降りてくるものではなく、もともと自分の中で何度も検討していたことだったり、強く心に残っていることがあって、何か使えないかなあとか思っているのである。ただ、だいたいの場合はそのままでは使えない。そのあと、色んな出来事があって、試行錯誤があって、壁にぶつかり、さてどうしたものかと思って悩んでいるあいだに、いい感じに発酵しているのを発見して、そうだ、この手があったぞと小躍りする。そんな感じのものなので、やっぱりモヤモヤと考え続けること自体は大事なのだと思う。
もっと言えば、心に引っかかったことや、強く惹かれたものというのは、やっぱり大事にしておくべきで、その時に何もできないからといってあきらめる必要はないのだ。
ぼくはこれまでも、キラキラとまぶしく輝くようなものを前にして、こういう考えに触れたい、こういう活動に関わりたい、と何度も感じる瞬間があった。そして、ほとんどの場合、それに対して、その時点では自分は何もできないのだ。だけど、本当に心を動かされたことというのは、ずっと忘れずにいる。そして、ゆっくりと自分の中で、自分になじむ形で育っていってるのだ。時間をかけて、自分の納得いくものとなり、自分の言葉で言い表せるものとなり、自分の手で作り出せるものとなっていく。

世の中には、目にしたものや手に取ったものを、非常に器用に再現したり、いとも簡単に実行できる人がたくさんいる。ぼくはそういう人にはなれない。なれないが、それでいい。その代わり、ぼくという非常にゆがんだレンズを通してのぞいた世界を見ている。その世界はとてもいびつで、不完全だが、ぼくはそれを信じている。それがぼくという人間が作ってきた世界であり、そこから始めるしかないからだ。独創的でありたいとか、人と違った人間でいたいとか、そういうことを思う余裕はない。そういう風にしか、ぼくは生きられない。だったら、そういう風に生ききってみせようじゃないか。そんな風に思う。

昔は、自分はこんな風にしか生きられない、とか言っている人を見ると、バカじゃねえかと思っていた。
そんなの自分への言い訳で、他の生き方もできるように、もっとちゃんと努力してから言えよ、と思っていた。
同じ言葉を、今、ぼくがぶつけられたら、なんと返事しようか。
そうだな、だからといってオレは人生をあきらめたというわけじゃまったくないぜと言い返してやろう。
むしろ、今オレはこれまでの人生の中で一番自分らしく生きている、必死に、かっこわるく、いい年こいて。
お前が追い求めている生き方にちょっとは近づけていると思うぜ。
うん、そう言い返してやろうと思う。