ぼくだけの未来、ぼくらの未来。

 

 

今の自分は、輝かしい未来の自分を実現するための手段でしかない。

 

そんな風にぼくは考えていた。
そしてそれは、自分が想像する自分自身の未来が輝かしいものである場合に限り、うまくいく考え方だった。
年を取ると、未来の輝かしさは失われていく。
若い頃に描いていた、世の中で大活躍をし、脚光を浴びているはずだった自分にはついになることができず、これから先は年老いて、ただ衰えていくだけの未来しかない。
これからの人生はただ負け続けるだけの空しい消化試合となる。

だから、年を取ったら人生における時間のとらえ方を変えていく必要がある。
ぼくはそう考えた。
遠い未来ではなく「いまここ」の現実を見つめ、目の前のことに集中して生きていけるようにする必要がある。

そう考えた。

ところが、どうもこの考え方には問題がある。

いくら「いまここ」に集中しようとしても、ぼくの毎日は、これから先のことと切り離すことはできない。

朝起きて、軽く運動をしよう、その動きに集中しよう、という時でさえ、この運動を毎日続けることでこれから先の健康が維持できる、という考えから逃れることはできない。

そして、仕事の場合は、ほとんどすべてのことが未来についての話ばかりだ。

今後のスケジュールについて考えずにはいられないし、これから先の進め方についてどちらのプランを選ぶのか、それを選んだ場合は何が必要になるのか、それらを入手するためには今どうすればいいのか、何もかもが未来によって支配されている。

いや、今ぼくは目の前のことに集中したいから未来の話は一切しないでくれ、なんて言うわけにはいかない。

いくら「いまここ」を大切にしようとしても、未来を無視することはできない。

じゃあどうすればいいのか。

 

そこで思うのは、この未来とはいったい誰の未来なのか、ということだ。

まず、ぼくの未来である、ということは間違いがない。

ぼくに全く関係のない未来についてまで考えて、今の行動を決めるというのはなかなか難しい。

ただ、ひょっとしたら、未来は、ぼくだけの未来ではないのかもしれない。

チームで仕事をしている場合は、チームメンバー全員に共通する未来について考えている。

あるいは得意先や得意先の顧客について考えている。

そして、これからの世界を生きていく人々について考えている。

家族の場合はもっとわかりやすい。

まして、子どものことを考えるときなんて、自分がいなくなった世界についても想像を巡らせているのである。

 

もし自分だけの未来について考えているならば、その未来に希望が持てなくなってきた時点で、人生というものは空しくなる。

もう未来に期待はできないから「いまここ」に集中しよう、と言っていても、それはこれから老いて醜態をさらすしかない現実から目をそらして、ただ逃げているだけだ。

でも、ひょっとして、ぼくが考えている未来というものの中に、ぼく以外の存在も含まれるのなら、そして、ぼくがいなくなったあとのことも含まれているのなら、少し「いまここ」の意味も変わってくるのではないだろうか。

仕事のチームメンバーの中にはこのあと別の会社に行ったり、別の仕事をはじめる人もいるだろうし、育児や介護など誰かを見守る立場になる人もいるだろうし、会社にとどまって経営に関わる人もいるだろう。

また、ぼくの仕事は、この世界に暮らしている人々にほんのわずかな変化をもたらすかもしれないし、そういう意味では、ぼくは彼らの人生の未来にも関わっているのだ。

家族の未来については言うまでもない。

 

つまり、ぼくが向き合わざるをえない未来とは、「ぼくだけの未来」ではなく、「ぼくとぼく以外の人々の未来」。

「ぼくらの未来」なのだ。

そう考えると、少しだけ気持ちが楽になる。

ぼくが「いまここ」で取り組んでいることは、ひょっとしたら(いや、ひょっとしなくても)自分自身のこれからの人生に良い影響をもたらしてはくれないかもしれない。

どれだけ仕事をがんばったって、それほど給料は増えないかもしれない。

でも、ぼくの仕事は誰か他の人を力づけ、その誰かが活躍し、ぼくらの世界を少しだけ良いものにしてくれるかもしれない。

どれだけ育児をがんばったって、誰にも感謝されず、何の利益も得られないかもしれない。

でも、子どもたちが成長し、彼らがこの世界の未来をちょっとでもましにしようと行動していけるなら、ぼくが生きてきた意味も少しはあると言えるだろう。

つまり、ぼくにとっての時間は、現在とその先にある「ぼくだけの未来」を結ぶ一直線のものではない。

現在を中心として、その先にあるさまざまな「ぼくらの未来」に向けて、おうぎ形に広がっているのだ。

ぼくの「いまここ」は、ぼくだけでなく、ぼくを含めたたくさんの人々の未来に向けて広がり、なんらかの影響を与える。

いま、ぼくはそんな場所に立っている。

 

 

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それに加えてもう一つ思うのは、ぼく自身の現在だって、ぼくよりもずっと前から生きてきた人たちの「ぼくらの未来」の一部なのだということだ。

ぼくは、名前も知らない誰かから、ほんの少しずつの未来を託されている。

それを次の未来へとつなぐだけで、自分は十分に生きてきたと言えるのじゃないだろうか。

 

そんなわけで、ぼくは安心して、これからも、未来を妄想するという遠い目と、「いまここ」に集中する近い目と、どちらも持ちながら生きていけばいいのだ。

ぼくはいつでもどこでも、顔も見たことのない「ぼくら」とちゃんとつながっている。