ちょっとパソコンやスマホの操作がわからないと、若い人よりも、同年代や年上の人のほうがバカにしてくるような気がする。
若い人は、まあちょっと得意げにしているやつもいるけれど、わりと素直に、そして丁寧に教えてくれる。
ところが同年代や年上の人間は露骨にバカにしたり、不快そうな顔をする。
自分ができていることを、年下や同じ年代の人間ができないでいると、なんとなく腹が立つのかもしれない。
しかし、どれだけ努力をしていても、年を取ると、どんどん自分でできることは減っていく。
ぼくなんて、本当にできることが少ない年配の人たちよりは、ずっとなんでもできるほうだと思うけれども、それでもやっぱり、自分のできることなんて、ほんのちょっとだけだなあとよく思う。
ぼくはそのことを昔から知っていたような気もする。
だからこそ、自分の好きなことだけを追求できたらなと思ったのだし、好きなことを仕事にするということは、他の可能性を切り捨てるということだというのもなんとなく覚悟していたように思う。
ぼくは若い頃のほうがずっと謙虚だったのかもしれない。
それが、年を取って、世の中の仕組みについてちょっとは詳しくなって、そこへ首を突っ込むことで多少の経験を得られることがわかって、なんとなく自分はたくさんのことができるような気になってしまっていた。
しかし中年にさしかかって、若い人たちのパワーには勝てず、同年代でもぼくよりもずっと丁寧に一生懸命努力してきた人たちの積み重ねてきたものにも勝てず、自分がたいした人間ではないことに気づく。
そのプロセスにはがっかりしてしまう。
若い頃のぼくは、謙虚だったかもしれないが、しかし自信はあったと思う。
その自信は決して過去に裏付けられたものではなくて、未来を根拠としていた。
自分は、これから好きなことだけを仕事にしようと努力していくから、他のことはあきらめる。
だから、あきらめた色んなものたちのぶんぐらいは、少しは何かができるようになるはずだ。
そのあきらめこそが、自信となっていたように思う。
けれども今は、もう未来がいつ終わるかわからない状態で生きているから、ぼくには自信を持てるリソースはない。
だからといって、ぼくは自分のことを不幸だとは思わない。
短い時間だったが、好きなことを仕事にできる機会があったし、それは仕事にしなくたって続けられることもわかった。
大きな挫折も味わったけれど、それを挫折だと振り返ることぐらいはできるようになった。
ただ、言えることは、人はそうやって人生の中で強くなったり、弱くなったりを繰り返しながら、少しずつ弱くなっていく、ということだ。
だから、誰もかれもが自立して生きていくべきだ、とは思わない。
赤ちゃんやお年寄りだけでなく、自分の力で立つことができると思われている人でも、急に心が弱って立ち上がれなくなることがあるのだ。
あるいは、そう思われていた人でも、ちょっとずつ力を取り戻して、これまでよりはゆっくりしたペースかもしれないけれども、ちょっとずつ前に進むことができるようになったりもする。
そして、どんな人間であっても、最後は何もできなくなっていく。
ぼくはそのことを前提として、生きているだろうか。
今はうまく行かなくても、また調子の良い時がやってきて、なんでもできるようになると、心のどこかで思っていないだろうか。
それよりも、自分が何もできなくなっていくその日まで、そしてこの世から消えるその日まで、命をたっぷりと味わえるような、そんな生き方、あるいは死に方をちゃんとできているだろうか。
別に暗い気持ちではなく、むしろ前向きに考えた結果なんだけれども、そんなことを最近は思う。
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