ずっと、認めたくなかったけれども。

 

 

 

若い頃はずっと、明日は今日と違う自分になれると思っていた。

 

 

 

実際に、寝れば体力は完全に回復したし、今までできなかったことが急にできるようになる、という経験も多かった。

世の中というものは、何か一念発起して、それに向かって突き進めば、必ず何らかの道が開けるものだと信じていた。

どんな状況に陥ったとしても、そこで必死に努力すれば、どこかで一発逆転を起こすことができると思いこんでいた。

そして、毎日同じようなことを地道に繰り返して、ちょっとずつ進んでいくような生き方をどこかでバカにしていた。

だけど年を取って思うのは、しかし残念ながら、人生は地道なことの繰り返しであって、自分という存在は生まれてから今までの日々の生活を積み重ねてきた結果としてここにいる、ということだ。

 

なぜそう思うのか、なかなかそれを説明するのは難しい。

何かはっきりと根拠があるわけではない。

ただ、それなりに長く生きてきて、年を取った今、これまでの生きてきた時間を振り返ってそう感じる、というくらいのことだ。

子どもと一緒にすごす時間が多いから、というのもあるだろう。

子どもは毎日少しずつ、地道に成長していく。

たしかに急に何かができるようになる瞬間はあるのだけど(そして本人はそれが急にできるようになったと感じているはずだが)、親として一歩離れたところから見ていると、まあここまでちょっとずつ経験を積み重ねてきた結果だから妥当だな、と思えることがほとんどだ。

自分のことはよくわからなくても、子どもの様子を見て、ああぼくもそうだったのだろうな、だけど自分では気づいていなかったのだろうな、と感じる。

 

また、年を取って物覚えが悪くなっても、自分が望んで努力していることについては、昔のような大きな成長はまったく期待できないにしても、ちょっとずつ上手くなったり、得意になっていったりする。

だけど、これもやっぱり以前のように、ふと急にできるようになるとか、目の前の光景が一変するとか、そういう種類のものではなくなってきた。

そりゃこれだけやったのだから、まあこれぐらいはできるようになるよなと、納得するような程度の変化がほとんどで、それより下回る結果だったとしてもそれほど落ち込まないし、逆にあまりに上達が早すぎる場合でも、だからといって夢中になりすぎない。

必死にやったところで、どうせどこかで行きづまることがでてくるし、行きづまったからといって全てが終わりになるわけではない。

焦らず、たゆまず、毎日を続けていって、その中で叶うこともあれば、永遠に叶わないこともあり、どっちにしたってそれがぼくの人生だ。

そんな風に、最近は思うようになった。

 

あらためて人生を振り返ってみても、どうもぼくの人生というものは、結果を焦って短期間で勝負をかけようとしたものは、だいたいうまくいっていない。

うまくいったと思っていることであっても、実はその前から地道に積み重ねていたものがあって、その上に結果が花開いただけにすぎなかったりする。

どうしても若い頃は人生をドラマティックに生きたいと願うし、想定どおりの結果しか得られないような生き方の何が面白いのだと思うわけだが、まあ実際はそんなに無茶をせずに暮らしていても人生というのはけっこうドラマにあふれているものだし、想定通りに生きるなんてことに至っては、まあまったくもって不可能である。

つまりは、毎日を地道に生きていても、十分に人生はドラマティックで予測不可能なのである。

 

というようなことを書いてみて、ずいぶん自分の人生観は変わってきたなあと感じる一方で、しかしどこかでなつかしい、親しみのある感覚であるようにも思う。

それが一体何なのかは思い出せないけれども。

まあいずれにしたって、自分のペースで歩き続けよう。

地道に、機嫌よく。