「居場所」は、どこにある。

fujiponさん(id:fujipon)の記事を読んで、何か書きたいな、と思いつつ少し時間が経ってしまった。
だけど何か書こうと思う。

冒頭の『はてな匿名ダイアリー』を書いている増田さん(『匿名ダイアリー』の筆者)には、「僕もそんな感じで50年くらい生きているし、人生というやつを俯瞰してみれば『絶対的な居場所がある人間』なんていなくて、『居場所がある』と本人や周囲が信じているかどうかだけではないか」と思うんですよ。  もう50歳のオッサンにもなって、今更なにを言っているんだ、という感じですし、実際のところ、年を重ねていくにつれ、こういう「どこにも自分の居場所がない」という感情は薄れてきたように思います。  それは、克服した、というより、もうどうでもよくなった、というか、どうせそんなに遠くないうちに死んじゃうし、というのも大きい。

『いつも「ここにいちゃいけない」気がする』人間として、50年間生きてみました。 - いつか電池がきれるまで

fujiponさんは、はてな匿名ダイアリーに投稿された、『いつも「ここにいちゃいけない」気がする』という記事について、こんな風に応える。
そして、このあと色んな本やマンガを紹介しながら、ご自身の言葉以外も使って、丁寧に応答を続けていく。

ぼくは、普段、あまり「居場所」ということを強く意識することがないように思う。

そういえば以前、子どものプール教室で、空いている見学席に座ろうとしたら、隣の人にキッとにらまれて、「ここ、とってるんですけど!」と厳しい口調でとがめられたことがある。
よく見てみると、小さなポケットティッシュか何かが置かれていて、ぼくは全然気がつかずに座ろうとしていたらしい。
ただ、「とってるんですけど!」とにらまれるほどのことなのかな、とすごく不思議に思ったので覚えている。
そもそも教室には「ご自分以外の席の確保はおやめください」という張り紙もしているんだけど、まあそういう問題じゃないのだろう。
その人にとっては、ポケットティッシュを置いた場所は、誰かのために確保した「居場所」であり、そのことはゆるがぬ事実なのだ。
ぼくはそんな風に、公共のスペースを「ここは絶対にゆるがぬ居場所だ」と思ったことがあまりないから余計に不思議に感じたのかもしれない。

それでいうと、仕事も似ている。
たしかに若い頃は「オレはコピーライターだ」という居場所を作るのに必死になっていたけど、年を取って、色んな職種や職場を転々とするようになってからは、自分が今いる職場や取り組んでいる仕事を「ここがオレの居場所だ」とは、あまり思わなくなってきた。
だけど、色んな場面で、「ここ、とってるんですけど!」と主張している感じの人と出会うことはある。
そのたびに、なんというか、本当にこの人はそう信じているのか、あるいはそう信じているフリをしているのか、どっちなんだろうなと思ったりする。
もし、本当にそう信じこんでいるならば、まあそれはそれで幸せなことなのかもしれない。
そこはよくわからない。

その居場所がちゃんと確保し続ける種類のものなら、きっと幸せなのだろう。
だけど問題は、多くの場合、居場所というものは誰かに奪われたり、あるいはいつのまにか失われてしまったりする、ということだ。
だからこそ、「ここ、とってるんですけど!」とがんばって闘っていく、という場合もあるし、いや、まあここがダメなら他をあたるか…と気持ちを切り替えるほうがよい場合もあるのだろう。
戦国武将のように「一所懸命」になるのか、遊牧民のようにさまようのか、それは人によるだろうし、あるいは時と場合によるのだろう。
いずれにしても、それくらい「居場所」というものは不安定で、それがぼくたちに不安と心配をもたらし、場合によってはそれが争いの原因となる。
領土をめぐる国と国の戦争も、結局はそういうところから起こるようにも思う。

だから、やっぱりぼくは「居場所」を強く意識していないような気がする。
というより、強く意識しない、ということを強く意識しているのだろう。

別に「居場所」がなくたって平気だ、なんてことはまったく思わない。
自分が今いるところはとても大切だ。
そこで、安心して、自分のペースですごせて、ほっとリラックスできる、そんな場所は必要だ。
ただ、その場所がずっとあるわけではなく、失われることもある、ということを、はじめから織りこみ済みでいたほうが楽なんじゃないかな、と思う。
人生というのは本当に理不尽で、突然、その場所をどけ、とどうにもならない力で無理やり押し出されることがある。
そこでなんとか取り返すことができそうなら戦うべきだけど、本当にどうにもならない場合は、気持ちを切り替えて、さっさとそこから退場し、別の場所を探したほうが早いことが多い気がする。

いや、ぼくはそういうことが言いたくて、何かを書きたいと思ったわけじゃない気がしてきた。
そうだ、それよりも、そうやって、もう失われてしまった「居場所」のことを考えたり、ひょっとしたらありえたはずの別の可能性にとらわれて悶々とするのは、もういいんじゃないかな、と思ったのだった。
ひょっとしたらすごくマッチョなことを言おうとしているのかもしれない。
過去を振り返らず、未来に挑み続けろ、みたいな。
ただ、そこまで極端なことは思わない。
人間、そりゃあ過去を振り返ることもあるし、若さゆえのあやまちを思い出して耳が熱くなってくることもあるし、ああもっと勉強しておいたらよかったなあとため息をつくこともある。
だけど、それはまあほどほどにして、今できることをやっていけたらなあと最近は思う。

ぼくは40歳になる少し前から、中年になることや年を取ることについてずっと考え、悩み続けてきた。
だけど、いま立派な中年になってみて思うのは、いや、まあたしかに体はだるいし、物覚えも悪いし、集中力も激減したけど、やれるところまでやっていこう、ということだ。
むしろ、ぼくは今、これまでの人生の中で一番チャレンジをしているかもしれない。
見た目にはそれほどではないかもしれないけど…。

なんというか、やっぱりぼくは「居場所」が欲しかったのだと思う。
コピーライターという「居場所」を失ってからずっと、ああここは自分のいるべきところだ、というものが欲しくてしかたなかったのだ。
で、いつまでもそれが手に入らずさまよい続けて、ようやく最近、もうそういうのはいいや、と思えるようになったのかもしれない。
fujiponさんもおっしゃっているように、結局「居場所」は自分で作るしかないのだと思う。
もっと言えば、それは完成することはない。
作り続ける、という行為の中にしか存在しないのかもしれない。

そうだ、そういうことが書きたかったような気がする。
居場所を作り続ける。
終わりのない旅。
それが生きるということなんだと思う。

まあ、今のところは、だけど。