つながるべきか、つながらないべきか。

豆象屋さん (id:mamezouya)のこのエントリを読んで、思ったこと。
mamezouya.hatenablog.com


一人になりたい、ということの意味
会社の人たちと、どういうときに幸せを感じるか、という話をしていたら、自分は誰ともつながらずに一人の時間をすごすときに一番癒される、と答えた人がいた。

たしかにぼくらはずっと世界とつながり続けている。
それはすばらしいことなんだけど、いつも他者のことを意識し続け、自分以外の何かについて考え続けないといけない状態は疲れる。
いや、何が疲れるかというと、逆説的だけれども、他者のことを考え続けることを通して、自分のことばかり考え続けないといけないことに疲れる。
こんなことを言ったら気を悪くされるんじゃないかとか、早く返事をしないと不安にさせてしまうんじゃないかとか、こんな文章を書いたら炎上するんじゃないかとか、相手の自分に対する反応を想像するから疲れてしまう。

だから、誰ともつながらずに一人になりたい、ということは、自分のことだけを考えたい、という意味ではなく、むしろ自分のことを考えずにすむ時間がほしい、ということなんじゃないだろうか。


自分自身から離れるための方法を探して
夏休みに子どもたちとプールに行ったときに思ったのだけど、泳ぐときは、速く進むにはどうしたらいいかとか、余裕を持って泳ぐにはどうしたらいいか、ということについては色々と考えているけど、ぼくがどう思われているかとか、ぼくがどうあるべきかとか、ぼくはこれからの人生をどうするべきとか、当然だけど考えていない。
これも自分について考えずにすむ時間かもしれない。

本を読んだり映画を観たりするときもそうかもしれない。
本や映画の世界には、ぼくはいない。
もちろん主人公や他の誰かに感情移入をしていって、まるでそこにいるかのような疑似体験ができるけれども、やっぱりそれはぼく自身ではないから、たとえどれだけ恐ろしい話だったとしても、ぼく自身の身の安全について考える必要はない。
そうやって、人は昔から「自分自身と離れる時間」を大切にしてきたのだろう。

ただ、今ほど自分自身と常時接続を続けなければいけない時代に人類は直面したことがないから、禅やマインドフルネス、ヨガ、ランニング、ソロキャンプなど、自分自身から離れるための儀式や方法論が注目されていたりするのだろう。

常時接続が当たり前の時代において、スタンドアローンになっている状態は非常に危険だ。
そのあいだに重要な情報を取得しそこなって大損害を被る可能性もあるし、もし切断の仕方を間違ったせいで、戻ってこれなくなったら大変だ。
だから簡単につながりを切り離すことができない。
しかるべき手順で一つずつ意識を閉じていき、安全にシャットダウンを完了させなければいけない。
自分自身から離れるのは、命がけの行為なのだ。


ゆるいのがいいのでは
無事に、自分自身からの離脱が成功したあと、ぼくらはどれくらい孤独の時間を楽しむことができるだろう。
3日?1週間?1ヵ月?1年?それとも、もっと長く?
ぼくは今、常時接続状態に疲れてしまって、一人の時間をすごしたくてたまらないけれども、それでも3日が限界なんじゃないだろうかと思ったりする。
1日目はたぶん余裕だ。
まずは、昼過ぎまでただゴロゴロしたり、ひたすら寝たりする。
あるいはあえていつもと同じ時間に起きて、公園を散歩したり、プールで泳いだりする。
いや、だけどもうダメだ。
公園を歩けば、人とすれ違ったり、声をかけあったりすることもあるだろう。
プールに行けば、受付の人と話さないといけないし、泳いでいる他の人とのなんらかのコミュニケーションも発生するかもしれない。
それじゃ自己からの離脱とはいえない。
もちろん外食もダメだし、投稿した瞬間に誰かとつながるからブログは絶対ダメだ。
そう考えると、もう1日ももたないかもしれない。

とまあ、それは極端だとしても、孤独の時間を楽しむのはなかなか難しいものだ。
結局、この挑戦は失敗に終わる。
そしてそのたびに、ぼくらは世界とどこかでゆるくつながっていて、そのつながりに生かされていると気づくという結末を迎える。

むしろ、それこそがぼくが本当に求めていることかもしれない。
今のつながりはあまりに緊密すぎて、ぼくらは自分のことについて必要以上に意識しないといけない。
何者かになりたいとか、承認欲求が必要とか、中年以降をどう生きようかとか、そういったことに悩むのも、その緊密さと関係しているような気がする。
お互いの距離を保つこと。
相手からの反応を急がないこと。
自分もあわてて反応しようとしないこと。
自分の考えの枠組みに相手をおしこめないこと。
自分も相手の考えの枠組みに無理におさまろうとしないこと。
そういう状態を受け入れながら暮らすこと。
そんな、お互いにゆるやかにつながる態度が浸透すれば、もっとぼくらは生きやすいのかもな、と思ったりする。

なかなか難しいことなのかもしれないけれども。