これはズルい問いで、もちろんそれは状況によってちがう。
だけど、あまりにも最近は判断の早さを求められることが多いような気がする。
で、本当にそれでいいのかなあと思った。
判断にも色んな種類がある
たしかに判断は早いほうが良いことが多い、というのは人生の中で何度も経験がある。
いい企画というのはすぐにピンと来ることが多く、うーんこれはどうかなあ...と悩む場合はあまり追いこんでもなんともならないことが多い。
また、期間限定のプロジェクトや明確なゴールのある作業の場合は、モヤモヤ悩んでいるヒマがあったら、小さな判断をどんどんやっていって、ちょっとずつでも先に進んだほうがうまくいくことが多い。
一方で、割と長く悩み、ギリギリまで判断できなかったこともたくさんある。
なにがなんでもコピーライターになる、という判断も、実際はそう思えるようになるまで色々と悩んでいたし、その気持ちを試されるような機会がなければ、ひょっとしたら今でも悩んでいたかもしれない。
あるいは今のような仕事と生活のしかたを選ぶようになったのも、納得いくまでかなり時間がかかった。
いや、正直に言えば、ぼくは人生におけるたくさんの判断をまだまだ保留にしている。
それらの中には本来なら今すぐ決めるべきこともあるだろうし、逆にじっくり考え、樹を待ってから判断するべきこともあるだろう。
判断にも色々ある。
早い判断ばかり求められる世界は余裕がない
たしかにポンポンと早い判断を繰り返し、次々に新しい展開を迎えていくのは楽しい。
それがいい方向に進むと、いい感じに脳内に刺激が走り、テンションが上がり、なんでもできそうに思えたりする。
しかしそれがずっとうまくいくわけではい。
何かの拍子に間違った判断を繰り返してしまったり、思いもよらないできごとに巻き込まれてしまったりして、しばらく再起できなくなることもある。
判断が遅い!が合言葉となるような環境では、そういう人は置いていかれたり、再起の可能性を摘まれたりする場合がある。
本当はそういう時こそ、自分のいる場所を見つめ直し、じっくりとこれから先を考える時間が必要なのだと思うけど、そんな余裕はなかなかないのが実情だ。
世界はますます早い判断と、正しい答えと、新しい情報を求めてゆく。
ぼくもそういう感じだ。
宙ぶらりんに耐えれるか
だけど、このところ、ぼくは色んなところで簡単に判断するのが難しい場面にばかり出くわす気がする。
感染症についても、ロシアの軍事侵攻についても、仕事のこれからについても、家族の未来についても。
大きな方針なり仮説なり妄想なりはできても、いざ今自分は何をするのか、ということになると皆目見当がつかない。
いくらそれらについて考えても、考えるだけモヤモヤが増え、余計に不安になってしまう。
じゃあまったく考えなければいいのかというと、それはそれで難しい。
そういう、すぐには答えの出ない宙ぶらりんな状況に耐えること。
それがいまぼくがぶつかっている、あるいはもう何年も何年も抱え続けている何かの正体のような気がする。
じゃあどうすればいいか
そこでまた急いで解決方法を探してしまいそうだが、それこそがモヤモヤの原因かもしれない。
結局、いまぼくができるのは、そういったモヤモヤを受け入れることなのだろう。
自分は解決方法を持っていない。
この先も手に入るかどうかわからない。
そんな状況を受け入れて、それが自分の人生、と開き直っちゃうことなんだろう。
それはすごく難しいことだし、そう思えるときと思えないときがある。
世の中はぼくらにさらなる早い判断を求め、歯切れの悪い言葉を否定しにかかる。
そんな中で、判断が遅い!のも大事、とはっきり思えるタイミングがどれだけあるだろう。
だけど、やっぱり宙ぶらりんでありたい。
ぼく自身の人生の答えを、他人から勝手に迫られ、押しつけられてたまるか、と思うし、ぼくもまた他人に対してそうあってはいけないと思う。
モヤモヤを受け入れながら歩いていきたい。