ツベルクリン良平 さん(id:juverk)のこんな記事を拝読しまして。
つまるところ、日本が今のアジア各国のように成長可能性が高かった時期を骨子としているのである。それを下敷きにしてきた我々の成長志向は概して強い。 だが、今はそのときと条件も環境も全く違う。これまで理想として伝えられてきた成長像と、現実の成長曲線に乖離が生まれているが、それに気づいていない人が多いのである。 だからこそ成長実感はできないのに、成長志向は高いという矛盾が生まれているのではないか。 現実を受け入れて成長している環境に移動するか、成長率が鈍化している日本で最適化を目指すのか。いずれにせよ、今自分たちがどんな状態にいるかを客観的に見ることが大切になりそうだ。
なぜ日本人は「成長実感」できないのに「成長志向」は強いのか? - 自省log
それでまずは、ぼくらの思う「成長」っていったいなんだろう、って思ったわけです。
たぶんツベルクリンさんのおっしゃっている「成長」は、経済的な成長のことなのだろうと思いますが、もちろんそれだけが成長ではなくて。
そうだ、心の成長が大事だ!みたいなことをちょっと考えたのですが、すぐにつまんなくなったのでやめました。
ということは、やっぱり経済的な成長、というテーマからは逃げられないわけで、たしかに人口ボーナスの恩恵を受けているアジア各国のような経済的成長は日本では期待できないのだろうと思います。
ただ、それは「人口ボーナスの恩恵を受けている」状況でないと期待できない経済的成長の話に限られるかなと思ってて、大量生産・大量消費モデルで儲けるとか、電子決済サービスの規格競争に勝てるぐらいの大規模なユーザーを一度に確保できるとか、そこで得られた収益でドーンと有望な市場に投資するとか、そういうことに限られると思うんですけど、まあそれってほとんどの経済成長が含まれるかもしれませんが。
じゃあそうじゃない経済成長ってなんなの、ってことですが、それは企業や行政じゃなく、ぼくらのほうから起こると思っていて、どれだけ便利でもペットボトルよりマイボトル使うとか、どれだけ面倒でも家で料理を楽しむとか、どれだけ時間の無駄でもこうやってブログを書くとか、こっち側が起こす変化に何か面白いことがあると思うんですよね。
企業がとか政府がとかアジアがとか、周りの動きをじーっとうかがって、なけなしの成長努力を大海にポトンと一滴たらすためだけに何もせずにいるよりも、さっさと仕事を切り上げて、これまでとは違う道で帰ってみて、その道草の中でへんなものを見つけることのほうが、ずっと経済成長につながるんじゃないかな、とぼくは思ってます。
しかしまあ、結局は考えちゃうわけですが、じゃあ経済的成長ってなんですか、あるいは経済的成長をとげた先に何を求めますか、って話ですよ。
これだけ欲しいものが安く手に入って、知りたいことがだいたいわかって、長く生きられる人が増えて、じゃあ何を求めますか、って話ですよ。
ぼくは、ここからが本番なんだと思うわけです。
一人ひとりがそれぞれ自分の人生に満足する方法を見つけられるかどうか、そこを今この国の人たちは探り続けている。
でもまあそれってなかなか大変な作業なんですよね、なんせ前例があんまりないし、ちょっと加減が狂っただけで急に生活が苦しくなったり、あるいはその危険性について、やれ甘えだとか逃げだとか、やたらと厳しく追及されたりする。
だから、つい、みんなが誰かを叩いていたら後ろから同じように火炎瓶を投げてはしゃいでスカッとする、といったわかりやすくて手軽なやり方を選んでしまう。
うまく言える自信はないんですが、本当に人生を楽しみたいなら、そういうスカッとするやり方は運動で汗を流すことぐらいにとどめておいて、あとは、果たして自分たちの生き方はこれでいいのだろうかとずっとウンウン悩み続けるほうが、結果的には見返りが多いと思うんですよね。
なぜなら、自分だけの答えが手に入るから。
ぼくはそのためにこれからもモヤモヤと悩み続けていくし、それが楽しくてしかたがない。
別にそれを他人に押し付けるつもりは毛頭ない、毛頭ないけれども、要は誰もが同じように満足できる答えなんてないので、もしそういうものに手軽に飛びつこうとしている人がいるなら要注意です。
そんな人にとっての「成長」は、人口ボーナスで得られる喜びとあまり変わらないでしょうし、となるとこの国でそれが満たされる可能性はかなり低いだろうからです。
そう考えると、これからのぼくらにとっての成長とは、修行に近いかもしれません。
でもそれは、とてもワクワクする、たのしい修行なんだと思うんですね。