誰も道は、教えてくれないけれど。



家族で母校を訪れた。



上の子が興味があるらしく、文化祭をやっていたので見に行った。
ちょっと前に同級生の用事の手伝いで校舎に行ったことがあるので、特に懐かしいとか感慨深いという感覚はなかった。
ただ在校生たちが、うちの子に話しかけてくれたり、遊びを盛り上げてくれたりしている様子を見て、ちょっと不思議な感じがした。

子どもたちが展示に夢中になっているあいだ、ちょっと疲れたので窓際に寄りかかって、外の景色を見ていた。
二十年以上経ったいまでもその光景はほとんど変わってなくて、高いところから広い空、緑の山、そして海へとつながる街並みを一度に見下ろせるのは、窓際の席になったときの特権なのである。
いまだにこの気持ちのいい環境の中にいるあいだにもっとしっかり勉強をしておけばよかったなと思うことはあって、そこでぼくのようにぼんやりとせずに必死に努力していた同級生たちはこの国だけでなく、世界じゅうで活躍をしている。
ぼくはすっかり落ちこぼれたが、十何年ぶりにみんなで集まったとき、コピーライターなんてわけのわからん仕事をしているやつは他にいなかったので、珍しがられてちょっとうれしかった。
ぼくはぼくなりの居場所を見つけ、家族ができ、みんなで母校に遊びに来ている。

不安なこと、心配なことがたくさんある。
ありすぎて、いつもその不安たちをつぶす作業に明け暮れ、こんなことばかりしている場合じゃない、もっと創造的なことをやらなくてはと焦り、理想と現実の落差にショックを受け、気が遠くなる。

今の自分は幸せなのかと言えば、たぶん幸せなのだと思う。
だけどそれは次の瞬間には失われる可能性のある幸せで、あるいはもっと努力しないともっと幸せにはなれず、あるいはいくら努力してもこれ以上幸せになるのは自分の実力では困難かもしれない。
そもそも、このままではいけない、といつも焦り続けている状態というのは、そんなに幸せとは言えないような気がする。

上の子と一緒に生物部の展示を見に行ったら、飼育カゴの中に赤や青や緑に輝くとても美しいハンミョウがいて、そのへんで見つけてきた、と説明が記されていた。
子どもが部員のお兄ちゃんに聞いたところ、普通に敷地内で見つかるという。
在校時にはそんなこと知らなかったし、知っていたとしても興味を持たなかっただろう。

幸せになるには、技術が必要な気がする。
それはあんまり簡単なものではない。
少しでも生活がマシになるように途切れず努力し続けられる忍耐力とか持続力とか、あるいはそれを持ち続けられる心のありようを時間をかけて身につけなければいけない。
だけどそれに加えて、毎日当たり前のように通っている校舎の敷地で、小さな美しい虫を見つけられる視点も必要なのだと思う。

もし何らかの理由で生きる力が弱くなってしまっても、不思議なものを見つめる態度を失わずにいたい。

帰り道にひょっとしてハンミョウが見つかったりしないかと足元を見ながら歩いたが一匹も見つからなかった。
それどころか雨が降ってくるし、下の子は坂道ですべってケガをするし、散々だったが、子どもたちは楽しかったらしい。

帰宅したら風がひどく吹き荒れていたようで自転車が倒れていた。
自転車を起こし、溝に詰まった落ち葉やら腐った木の実やらをかき出した。
それから家じゅうの燃えるごみを集めて、先にさっさと風呂に入って汗を流し、早めの夕食をすませたら、やたらと眠くてみんなで早く眠ってしまった。