「何者問題」と、ハッピーエンド。

シロクマ先生(id:p_shirokuma)の新著『何者かになりたい』(イーストプレス,2021)をきっかけに、「何者かになる」あるいはアイデンティティに関する文章がいくつも書かれていて、面白い。



特に、池田仮名さん(id:bulldra)のこんな文章が印象的だった。

『令和元年のテロリズム』の読書会において、「強制スクロール」という言葉が話題になった。学校があって就職があって昇進があって結婚があって育児があって、それぞれの困難とそれを乗り越えるための成長や価値観のアップデートが求められていくのが人間社会なのだけど、どこかで任意スクロールに転じやすくなったのが現代である。

若い女性にアタックし続けるおじさんは価値観の任意スクロールと年齢の強制スクロールに挟まれたなれ果て - 太陽がまぶしかったから

仮名さんは「何者かになる」という文脈ではなく、大人になると自分の価値観のアップデートを社会から求められていく、ということについて書いている。
だが、このことは、ぼくのような中年にとっての「何者問題」と密接に関係しているように思った。

ぼくも若い頃は「何者問題」についてずっと悩んでいて、それはコピーライターになれば解決できるのかと思ったがそんな簡単な話ではなく、では大きな賞を取ったり有名になればいいのかと考えたがこれはとても困難で、じゃあいっそのことそういったアイデンティティ獲得競争から降りてしまえばいいのだと試してみたが、そんな簡単に解放してはもらえなかった。

ぼくがいま一時的に「何者問題」から離れることができているのは、おそらく自分自身のことばかりかまっていられないから、というのが本音のような気がする。
子どもは日々色んな種類の問題を持ち込んでくるし、これに対応しているうちに今度は仕事で新たな事件が勃発する。
あるいはぼくよりもずっと若い人たちが、自分の「何者問題」について相談にやってくる。
いや、俺だってそれについて解決できてないんだけど…なんて言うのがはばかれるくらい若い人たちだ。
ぼくはそうやって、限定的に、この難しいテーマから目を背けているだけだと思う。

それはまさに仮名さんが言う「強制スクロール」の恩恵を受けているわけだが、しかしそれは「強制」的なものであって、よしオレはもう「何者問題」を解決したから次に行くぞ、という「任意スクロール」ではない。
だから、どうせそのうち、また対峙せざるをえないのだろうなとあきらめたりしている。
今よりもさらに年を取って、家族から、社会からもすっかり見放されたとき、ぼくは必ずこの「何者問題」に再びぶつかるだろうし、その時は、可能性に満ちた若い頃と違って選択肢はほとんど残っていないだろう。
ただ地味に、ついに「何者」にもなれずに人生を終えていくことを受け入れるのか、受け入れない(ということが一体何を指すのかはまだよくわからない)のか、その間で悶々とし続けるしかないのだろう。
そう考えると、ほとんどの人は「強制」であろうが「任意」であろうが、生きているあいだはずっと自分の価値観を見直したり、これで本当にいいのだろうかと逡巡したりし続けるしかないのだろう。

シロクマ先生も新著の中で、こう書いている。

 ここまで読み、人間の一生の儚さ、せっかく思春期に頑張って寄り集めた自分自身の構成要素とアイデンティティの行く末に悲観的になった方もいらっしゃるかもしれません。
 まあ、この点については、「しかたがないじゃないですか?」と私は言ってみたいです。もともと人間とは生まれてから死ぬまで変化し続けていくもので、どこまでも変わり続けていくものなのですから。

このことを、ぼくは理屈ではなく、自分のこれまでの人生を振り返って、やっぱりそうなんだろうなあと感じる。

スクロール、というゲーム用語が出てきたので、昔『ファイナルファンタジータクティクス』をプレイしていたときのことを思い出した。
このゲームには、さまざまな魅力的な人物が登場する。
彼らはそれぞれ「ホーリーナイト」とか「アークナイト」とか「剣聖」とか、固有の肩書を持っていて、それに見合ったかっこいい特技を持っている。
ところが主人公はそういった特別な職業になることが全くできないのである。
もちろんその代わりに、誰でもジョブチェンジできるような職業なら、修行を積むことで全てマスターすることができるのだが、それではキャラクターとしての個性は発揮できず、彼は「何者」にもなれないままなのだ。
おまけに彼の存在は後世の歴史の中で全く語られることはなく、その功績を称えられることもない。
ぼくはこのゲームをクリアしたとき、なんてモヤモヤさせられるのだろうと思った。
これじゃ完全にバッドエンドじゃないかとも思った。

でも考えてみるに、この主人公が取り組んできた大小の冒険の数々は、他の特別な登場人物たちには経験できなかった、かけがえのないものなのだ。
彼らが固有の職業を手に入れ、その特別なスキルを磨いている時間の中で、主人公は広い世界を旅し、さまざまな仲間と出会い、たくさんの小さな物語を残していった。
そういう意味で、彼は幸福だったのだ。

これはまあ、ぼくのこれまでの人生と同じじゃないかな、と思う(そんなすごい経験をしてきたわけじゃないけど)。

「何者かになる」というのは、年を取っても完全に自由になることができない厄介な問題だが、世の中の色んなことに好奇心を持ち、これからも面白いことを経験したいと思う人間にとっては、若干優先順位が下がるテーマなのかもしれない。

まあどっちが大事なのか、ということに答えはないけれども。