ふまじめな、おまじない。

 

 

ブログを書きはじめた頃、ぼくが抱えていた悩みは、このめまぐるしく変わりゆく世界の中でどのように自分らしさを保てばいいのか、といったことだった。

 

 

 

それからも色んなことが変わっていったし、特にこの1年でそのスピードは増した。

特に、離れている人とオンラインで話をすることが当たり前になったのはとても大きな変化で、おかげでわざわざ遠くまで出かけなくても共通の関心を持つ人と話がしやすくなった。

もちろん、実は仲良くなれるはずの人と偶然出会う、という機会は減ったように思うが、それは別に以前からそうだった気がする。

人は何かが変わったとき、そのせいで失われたものを数えがちだが、いざ数えてみると思っていたほどたくさんのものを失ってはいなかったりする。

ぼくに限っていえば、得たもののほうが多いと思う。

何よりも、ぼくはこのブログを書きはじめた頃からずっと、自分が色んなものを失い続ける様子を見つめ続けてきて、もうたいしたものは残ってないぞという状態だったので、これ以上何かが変わったところでそれがどうした、という印象だった。

むしろ変わっていく自分の生活を楽しんでいる。

そういう意味で、ぼくは悩み続けてきたことに対して、自分なりの答えを出せているのだと思う。

 

 

世界が正気、いや狂気を取り戻していく中で、古い呪いがまた復活してきているようにも感じる。

変化に対応できない奴はダメだとか、ライバルはもっと努力しているぞとか、考えをアップデートしないなら置いていかれるぞとか、そういった類いの古めかしい呪いたちだ。

この手の呪いは人の不安につけこんで、すっと関心事の真ん中に入りこみ、その不安をさらに大きく育て、自分たちの養分とする。

それはある程度なら生きるために必要な場合も多いけれど、増えすぎてしまうとぼくらはすっかり不安の虜となり、疲れきってしまう。

 

だけど、彼らを追い払う方法はある。

それは不真面目になることである。

真面目になんでもかんでも受け止めて、深刻に考えるから不安というものは大きくなる。

呪いにとっての大好物は、論理である。

人が自分の思考を論理的だと思っていればいるほど、不安の呪いは強力に脳内に組み込まれ、抜け出しにくいものになる。

反対に、チャランポランになって、楽しいことやバカバカしいことを考えたり実行したりしていると、うまく論理による不安の増幅が進まないので、養分が足りなくなった呪いは餓死してしまうのである。

 

 

それで話を最初に戻すけれども、このどうしようもない、絶えず変化をし続ける世界の中で、ぼくはどうやって自分らしさを保てばいいのか、という問いについて今自分なりに答えるならば、自分らしさを保とうとすることをやめたらいい、ということになるかもしれない。

いずれにせよ、これだけ長く生き続けてきたのだから、嫌でもなんらかの個性というものは表出してしまうし、変えたくても変えられない部分というのは残ってしまう。

それ以上に何かを守ろうとするのではなく、肩の力を抜いて、頭の中はチャランポランにして、変化の波に身体を浮かべ、気持ちよく漂っていればいい。

そのうちに行きたい島が見えてくるかもしれないし、海の中に面白いものが見つかるかもしれないし、また新しい波がやってきてどこか遠くへと連れていってもらえるかもしれない。

どっちにしたって、ぼくらはもうとっくの昔に見知らぬ世界へと放り出されているのだ。

 

難しいことばかり考えていても、何もはじまらない。