世界に向けて、開いていく。

週末に子どもたちとテレビで放送される映画を観ていると、彼らが楽しそうにしているだけで、それまではつまらないと思っていたものも簡単に好きになったりする。

 

学生の頃、好きな人ができると服装も趣味も何もかもが相手の好きなものに変わってしまう人がいたけれども、今となってはそれもわからないでもない。

要は、好きだと感じた時に、それに対して心が開かれるわけだ。

心を開いて、その魅力についてちゃんと向き合うようになれば、何かしらいいところがあって、それを愛でるようになる。

好きなものが増えるということは、自分が世界に対して少しずつ心を開いていくプロセスなのかもしれない。

 

ここのところ、ぼくは世界に対する扉を閉め気味にして暮らしているような気がする。

完全に閉じているわけではないけど、余計な情報にわずらわされたくない、という感じ。

原因にはいくつか心当たりがあるけれど、一番大きいのは、自分はもうとっくに人生後半戦に入っているのにまだこれまでの人生に心残りがあるからだろう。

厄介なのは、それが本当は若い頃の価値観を引きずったままの考えなのに、大人の顔をしてやってくることだ。

いい年なんだから年相応の努力をしないと、とか、年相応の成果を出さないと、とか、年相応の威厳を保たないと、とか、言葉ではまるで自分の年齢に必要なものだという感じで伝えられるけれど、それらは若い頃にぼくらが必要としていたことであって、今も同じというわけではない。

なのにそれに気づかずに、過去の呪いにとらわれて、本当は自分のすぐ目の前にすばらしい世界が広がっているにもかかわらず、心を閉ざしていた。

 

心を開くための合言葉はなんだろう。

好き、というのはとてもいいけど、そんなに簡単になんでもかんでも好きになるのは難しい。

何かを好きになるというのはそれなりにパワーのいることだ。

だったらどうするか。

いや、答えはもうわかっている。

手の届かない遠くの景色ばかりを見るのをやめる。

自分の手の中にあるものをもう一度たしかめ、よく観察し、丁寧に数えなおす。

そして、目の前にある小さな世界に向けて関心の扉を開き、おっかなびっくりでもいいから手を差し出して、そこにあるものに触れてみる。

そこから心は解きほぐされていく。

自分の目で見て。

自分の手で触れて。

 

まあ一番手っ取り早い呪文は、スマホをしまおう、というやつかもしれない。