今でも、あきらめきれないこと。






まがいなりにもコピーライターとして「書くこと」を仕事にしていた時期があり、またそれを目指していた頃はできるだけ多くの本を読み、できるだけたくさんの文章を書いていたし、今でもこうやってブログをとおして文章を書き続けているわけで、「書くこと」自体はぼくにとって、とても大切な行為だということは間違いないと思う。



しかし、それじゃどのくらい「書くこと」に執着しているのかといえば、これはちょっとわからない。

「書くこと」を仕事にしていた、といっても、キャッチコピーというのは長くて10~20文字程度で、短い場合は、数文字だったりする。

もちろんコピーライターはキャッチコピーを書くのだけが仕事じゃないので、長めの文章を書く機会もあり、ぼくは割と理屈っぽい、長い文章をダラダラと書くのが芸風だったりしたが、それでも、そもそも誰も読みたいとも思っていないのが広告の文章だ、その長さ自体をギネス記録にして話題にする、というような企画でないかぎりは、読むに耐える量には限界がある。

それで、企画、という言葉が出てきたのでその話をするが、コピーライターの仕事というか、広告会社のクリエイターにとって大事なのは文章を書くことだけではなく、その商品のどんなところをどう表現すれば面白くなるのか、という企画自体を考えるところにあった。

こうなってくると、面白いアイデアを思いついたほうが勝ちなわけで、完全なる異種格闘技戦である。

いい文章なんて書かないけれども奇抜な発想ができるやつ、映画やマンガがめちゃくちゃ好きで大量に引き出しがあるやつ、クライアントや上司の好きなポイントを的確に見抜ける器用なやつなど、それぞれがそれぞれの得意技で戦いを挑むので、「書くこと」がいくら好きでも、そして得意でも、面白い仕事にありつけるわけではない。

まあそれでもぼくの企画の強みは「書くこと」に軸があって、実際には言葉がほとんど出てこない広告を作ったとしても、その元となるアイデアの多くは、ああでもない、こうでもないと文章を書きながら発見したものだった。

そこは今でもあまり変わっていなくて、何らかの文章を書きながら発想をふくらませたり、要点を整理して本当に大事なものを探したりしているけれど、しかしまあそれは多くの人がそうでないだろうか。

「書くこと」に執着する、というと何かもっと切実で、ちょっと病的で、それがないと生きていけないような状態をイメージする。

はたして、ぼくがそういう状態かといえば、一日のうちに何も文章を書かないときもあり、それにまったく耐えられないわけでもないので、そこまで執着していないようにも思う。

もちろん何も文章を書かないときでも、ツイッターで何かをつぶやこうとしたり、思いついたことをスマホのアプリにメモしたりするが、さてそれを「書くこと」への執着と言える可能性は低い気がする。


ではどのような状態が「書くこと」に執着しているのか考えてみるに、たとえば毎日数千字の長い文章を書き続けている人や、それをさらに推敲し続けられる人などがあると思う。

ぼくが過去に「書くこと」を仕事にしていたといっても、たいした量を書いていたわけではないし、また何度も自分の書いた文章を直しているうちにだんだん一体何を書きたかったのかわけがわからなくなってくるし、そうなってくると、もう細かい違いなんてどうでもよくなってきたりした。

そのうち、自分の仕事は面白い企画を考えることであって、枝葉のことに細かくこだわる必要はないのだ、と割り切り始め、そうなってしまうと「書くこと」自体へのこだわりは一気に弱くなっていき、別のことに関心が移っていってしまった。

なんとなく、ぼくはそうやって、取り組んできた何かに対して自信がなくなってくると、「今はこっちのほうが大事なのだ」と自分に言い聞かせるようにして別のことへと逃げていくような態度を取り続けているような気がする。

「今はこっちのほうがクリエイターにとって大事なのだ」「今はこっちのほうがビジネスにおいて大事なのだ」「今はこっちのほうが生きるうえで大事なのだ」と言い聞かせることで、何か1つのことににひたすら打ち込み続ける覚悟から、逃げてきたようにも思う。

もちろん、ひとつの領域にとらわれるのではなく、世の中の変化に対応して変わっていくことも必要だ。

市場において提供する価値の軸を、環境の変化に合わせてずらすことがマーケティングにおいては大事なのだとも教わってきた。

しかし、いくら変わり続けたところで、この世に終わりはない。

終わりのない変化に身をやつし続けたところで、納得のいく人生を送ることができる保証はない。


変化に対応できなければ生きていけない。納得していなければ生きている意味がない。

そんな矛盾の中でぼくらは生活をしている。

ある人は、積極的に変化し続ける自分を楽しむことで、その矛盾を解消しようとしている。

ある人は、変化にしたたかに対応しながら、うまく自分のこだわりも発揮させようとしている。

そしてぼくのようにどちらにも順応できずに、悩み続ける人もいる。

一体、何が正解なのだろう。


しかし、こういう考え方もあるかもしれない。


執着というものは、そうやって頭の中で整理したり、冷静にメリットとデメリットを考えたりすることで、簡単に手に入れたり、手放したりできるようなものではない。

自分ではもう捨てたい、あきらめたい、やめたい、と思っていても、ふと気を許すとそのことについてばかり考えてしまっている自分がいて、それでこそ執着なのである。

簡単にあきらめがつくものは、執着ではない。

そう考えてみると、ぼくはコピーライターという仕事、広告制作という仕事には強い憧れこそあったものの、執着はしていなかったのだろう(もちろん、あきらめたときのダメージは大きかったけれど)。

広告という仕事にも、今はこだわりはない。

どんな仕事をしていても、自分は自分だという気はする。

では「書くこと」は?

さて、やっぱりこのあたりは自分ではよくわからない。

だけど、明日からまた仕事が始まるのにこんな夜中までブログを書いている自分には、何か切実で、病的で、それがないと生きていけないような雰囲気も感じる。


結局、執着というものは、本人が望むか望まぬかは関係のないことなのだろう。

一生付き合う覚悟で、マイペースにやっていくしかない。


あまりはっきりしたことは、わからない。

ただ、それは、夢とか目標とかビジョンとか、そういった美しく立派な類のやつではなさそうだ、とは言えるような気がしている。

そしてぼくは別に残りの人生を、美しく立派に生きなければいけないわけでもないのだ。



無様なほど執着して、かっこわるい最期を迎えるぐらいのつもりでいたほうが、気楽というものである。