不要不急な、ぼく。

 

 

 

 

自分は世の中に絶対に必要な仕事をしているのか、と言われたら、そうだと堂々とぼくは答えられない。

 

 

 

もちろん色んな企業や団体の役に立ったり、その結果、生活が豊かになることに貢献したりはしていると思うけれど、ぼくがいなくなってもどこかに代わりの人がいて、その人がちょっと忙しくなるくらいだろう。

人命に関わるような問題は起きない。

 

人命に関わる仕事といえば、医療と食べることと住むところぐらいだろう。

不要不急と言われたら、あとのことは全部不要不急なのじゃないだろうか。

いや、それじゃ経済が止まってしまう、というけれども、医療と食べることと住むところが確保されていたら、別に経済が止まっていても、誰も困らないのじゃないだろうか。

たとえば、その3つのことについては、誰もがなんらかの方法で関わって役に立ち、それ以外の時間は自由にすごす。

そんな風な世界であれば、別に誰も困らないのじゃないだろうか。

 

とまあそんな簡単にいかないのが人間だ。

すぐにそのルールを守らない人が出てくるし、仮に誰もがルールを守ったとしても、競争が生まれないから技術は今のようなスピードでは進歩しないし、じゃあ難病をどうやって直すのかとか、うまいメシを食べたい場合はどうしたらいいのかとか、便利な場所に住んでいるやつはズルいじゃないかとか、いろんな不満や問題が出てくる。

そして、それらを調整する役割の人の権限が大きくなってしまって、みんなの生活がその人の倫理観や価値観に左右されるようになってしまうわけである。

 

 

結局、何が問題なのかというと、人間は人間の欲望とどう向き合っていくのか、ということのような気がする。

うまいメシを食べることも、素晴らしい芝居を観ることも、スポーツを通して能力と努力を競い合うことも、人間の際限ない欲望を上手に満たす方法だ。

そういうものがなければ、ぼくらはもっとわかりやすい欲望、たとえば他人を力で支配するとか、誰かの大事なものを破壊してすっきりするとか、怒りのままに暴れまくるとか、そういった方向へと突き進み、簡単にこの世界は失われてしまうだろう。

もうちょっといえば、「生きたい」ということだって、人間の根本的な欲望だ。

「生きたい」という欲望を満たす手段は不要不急ではなくて、それ以外は不要不急だ、というのも、まあわかるんだけど、そうあまりにもバッサリやられると、他の欲望たちの肩身が狭すぎるように思う。

人間というのは「生きたい」以外の欲望をうまく扱って、自分だけではなく他の存在も生かすことに成功している。

あの店がなかったらうまいメシが食べれないよな、あの芝居が観れなかったら楽しみが減るよな、あの競技が見れなかったら人生がつまらないよな、そう思うから、「生きたい」こと以外のものにも対価を払う。

そして、その時点で、ぼくらにとっての「生きたい」という欲望は、ただ自分の生命を維持したいというだけのものから拡張され、もっと複雑で、込み入ったものに変質しているのだ。

それを、いや、生命を維持する活動以外は不要不急のものだから、と今さら区別しようとしても、それは難しいことなのではないだろうか。

 

たとえば、子どもを産み育てることだって、とらえようによっては不要不急の行為だ。

自分たちが子どもが欲しいから勝手に作っているだけであって、そのせいで他の人の食べる食料が減ったり、貴重な大人の労働力が一時的に減ったりするのだから、はた迷惑だと言われたらそこまでだ。

 

 

だからこそ、ぼくはいま不要不急のものをもっと見つめたいと思う。

生命を維持することは大切だ。

命がなければ何もできないからだ。

だけど、命のあるすべての人が、他の人の生命を維持するためだけに生まれてきたわけではないだろう。

それじゃなんのために生まれてきたのか?

それが、不要不急と切り捨てられそうになっているものの中に隠されている。

すべてを確保することはできない。

その中で、自分がこれだけは譲れないと思えるものだけを、ほんの少しだけ持ち帰って、それを育てていきたい。

それは、たとえば、ぼくにとっては、妻と力を合わせて子どもを育て、未来に命をつなぐこと。

人がやる気になったり創造的になったりできる仕事を極めること。

そして、文章を読んだり書いたりすることを、ほんの少し。

他の人にとってはどうでもいいことかもしれないが、これらは、ぼくには必要火急のものなのだ。

 

ぼくは以前から、自分はなんのために生まれてきたのか、自分が生まれてきた意味とは一体何なのか、ということをよく自問自答してきた。

あまりにもそればかり考えているせいで、実際の行動が伴わず、ぼんやりと生きてきたようにも思う。

だけど、今こそ、そのぼんやりと積み重ねてきたものを生かすときだろう。

ぼくの欲望を満たすために、頭をしぼり、それと同じかそれ以上に手を動かすときだろう。

 

ぼくは、ぼくという不要不急の存在が、自分の生きてきた意味を無理やり作り上げようとすることを、恥ずかしいとか、みっともないとか、まったく思わない。

 

それが、生きることだと思うからだ。