見えないメロディと聴こえない雲

目には見えないものや、耳では聴こえない音について考えているんです、と彼女は言った。

ほおん、そりゃずいぶん哲学的だねえと私は感想を伝え、相手に対して敵意がないことを表明しようとした。
そんな難しいテーマなら、今日や明日で解決するようなことじゃないし、じっくり考えなきゃね。
まあ、そんなわけで、そろそろ帰ろうか、おっと忘れ物がないようにね。
私はそう言って、彼女に対して、共有施設からの退場を促した。

「先生には、そういう経験はありますか」

私の意図が伝わっていないのか、彼女は席を立つ様子もなく、聞いてくる。
私は先生ではない。
この大学の職員でもない。
この共有施設を利用する学生たちの世話をするために一時的に雇われているだけの身分だ。
しかし、先生と言われてちょっと気をよくしてしまった私は、少しだけ話に付き合う気になってきた。
閉館が多少遅くなったところで、特にとがめられることもない。
私の夕食の開始時間が少し後になるだけの話だ。

「ううん、目に見えないものねえ、幽霊とかの類は信じていないけど、第六感とか虫の知らせとか、そういうのは存在するかもしれないな、とは思うかな」
私はちょっとウソをついた。
本当は、そこまで強くは思っていなくて、ただ、そうであっても特に問題ない、と思っただけだ。
しかし彼女はメガネの奥の目をかがやかせて、やっぱりありますか、とうれしそうに言った。

「やっぱりあるんですね。わたしはそれをつかまえたいんです。こう、網か何かでパッととらえて、透明のガラス瓶の中に閉じ込めるような感じで、ほら、ここに目に見えないけれどもたしかに存在するものがある、って確認したいんです」
ほう、と私はこの大学にいる教員のうち何人かを足してその数で割ったような人物をイメージして、思慮深げにうなずいてみた。
「先生は、そういうことができると思いますか?」
ほほう、と私はまたこの大学の平均的な教員の物真似をしながらちょっと考えてみる。
「どうなんだろう、目に見えないなら、いくらガラス瓶の中に閉じ込めてみても、誰にも確認しようがないんじゃないかなあ。まあ、重さが変化したとか、瓶が割れたとか、そういう間接的な方法で確認することはできるのかもしれないけど」
間接的ですか、と彼女は繰り返し、何かを考えている。

私は彼女の存在を以前から知っている。
よくこの共同施設を利用している、というか日によっては朝から閉館時間までずっといて、本を読んだり、iPadで調べものをしたり、何かを書きこんだりしている。
他の学生と話しているところを見かけたことがないが、友人が少ないのか、わざわざ知り合いがいない場所を選んでここに来ているのか、そのへんはよくわからない。
私は、自分に友人が少ないので、他の人のそういったところを心配する資格はないように思う。
それに彼女は、いつも一人だが、いつも何かに夢中で、生き生きとしている。
こんな時代に学生生活を送っている人にとって、それ以上に大事なことがあるようにはあまり思えない。

「目に見えないケースも不思議なんですけど、聴こえないはずの音が聴こえる、っていうのも不思議なんですよね」
ほうほう。
「たとえば、作曲をする人って、外にある何かの音を耳で聴くのじゃなくて、頭の中に浮かんでくる音をつかまえてメロディにするんでしょ。だったらその最初の音は一体どこからやってくるんでしょうね」
ほうほうほう。
「人を好きになるときも同じですよね」
えっ。
「あ、この人、好きっていう気持ちは自分の内側から生まれてくるように思うけど、本当にそうなんでしょうか。何か、わたしがその人を好きになるように仕向けられた目に見えない物質のようなものがあって、それを知らず知らずに吸いこんでしまって、それに反応して、好きってなっちゃっているだけかもしれません」
ほ、ほほう。
まあ、フェロモンとか、そういうものがあるっていうよね。
「どうかなあ、だってLINEをしているときに好きになっちゃうことだってありますから」
あるんだ。
「ありますよ、ないんですか?」
うむむむ、さあどうなんだろう。
私は自分の数少ない恋愛経験を思い出してみるが、ちょっとよくわからなかった。
それを正直に伝えると、彼女は真剣な顔をして深くうなずいた。
「そうですよね。人の心の中で起きていることは、その人の数だけ違うので、一般化することは難しいように思います」
そして、にやっと笑ったので、私はちょっと動揺した。
この短いやりとりの中で、何か私にとって不利な情報を与えてしまったのだろうか。
「だからなんですよ」
だ、だからって?
「だから、ガラス瓶に閉じ込めて、誰もがそうだってわかるようにしたいなって思うんです」
そ、そういうことね。
私はほっとすると同時に、他人を信用していない自分に対してちょっとがっかりした。
彼女はそんな私をじっと見つめている。
ううん、やっぱり何かまずいことを言ってしまったのだろうか。
その疑念をどのように確認するべきかわからず、言葉を探していると、彼女は口を開いた。
「先生、もう閉館ですよね、帰ります」
私はなんだか色々と申し訳ない気持ちになって、一つだけでも罪の意識を減らそうと思い、自分はこの大学の教員ではないということを打ち明けた。
すると彼女はちょっと驚いた顔をして、それから言った。
「え、そんなこと知ってますよ」
うん、だから私は先生じゃないんだよ。
彼女は、なんだそんなことか、と笑った。
「だってこうやって話を聞いてくれる人のことを先生って言うんでしょ?」

彼女を送り出し、事務所に戻って今日の業務報告を作成し、共有施設を出たら、まだ外は明るかった。
空を見上げると、雲が紫色やピンク色に染まっていて、とても美しかった。
ガラス瓶にこの空を閉じ込めて、ほら、と見せることができたら、みんなそれを美しいと思うだろうか。
私はそんなことをモヤモヤと考えながら帰路を歩いていく。
どこかで誰かがピアノを練習している音が聴こえる。

だが、それもひょっとしたら私にしか聴こえていないのかもしれない。