サックスブルーの思い出

「君のことはねえ、全然、心配してない」

師匠はそう言って、目を大きく開き、こちらをぐっと見つめてきた。
瞳の色は同年代の人たちのように薄くなってきているが、いまだ光は力を失っておらず、スキがあれば相手を飲み込んでしまいそうな目だった。
私はなんと返事をしていいかわからず、居心地が悪くて、ただじっと目をそらさずに見返すので精一杯だった。
その様子を見て、師匠は満足そうに、にやっとした。
少年の顔になって、きゃっきゃっと笑った。
やられた。
いつのもやつだ。

師匠は昔から、何か意味ありげなことを言ってのけて、こちらのほうを試すように見つめてくるクセがある。
ただのクセだったら無視すればいいのだが、時々本当になぞかけをしてきている場合があり、それに気づかないとへそを曲げてしまう。
一度へそを曲げると面倒だし、彼はそのことをずっと覚えていて、ことあるごとにねちねちと蒸し返すので、弟子たちはそういう事態を恐れて、即座に反応してみせる。
わあ、まいりました、とか、いやあ、深いですねえとか、誰が見ても、まったくもって心のこもっていないオーバーリアクションをするのだが、師匠はそれでも満足そうにしている。
師匠は無礼講というやつが嫌いで、年配者は理屈抜きに大事にされなきゃいけないと考えている。
というよりも、自分が誰よりも大事にされなきゃいけない、と思っているだけか。
そんなわがままな少年のような人を弟子はみんな愛していた。
いや、どうだろう、本当に愛していたのかどうかはよくわからない。
その証拠に、引退しても、こうやってお酒に付き合う人間は少ないみたいだし。

「ヨシノくん、君はねえ、ぼくと割と似ているほうの人間やから」
そんなことは初めて聞いた。
「まあ、何か面倒なことが起きたり、突然メシが食えないような事態に陥ったとしても、なんとかやっていける人やろ」
またからかっているのかと思ったが、師匠は「まじめな顔」に戻っている。
この顔がまた厄介で、たしかにこの表情を浮かべているあいだはちゃんとまじめな話をするのだが、話をしながらも奴はいつでも私をからかったり、良い話を台無しにする一言を探したりしているので油断ならない。
ただ今のところ、そういう予兆はまだない。

だから君のことは何にも心配してない、ともう一度師匠は言って、片目をつむり、開いているほうの目でウイスキーの入ったグラスをにらむ。
あいかわらず、かっこいいし、かわいい。
師匠に出会った時、こうなりたい、と思った。
他の先輩たちとはまったく違っていた。
誰の意見にも迎合しないし、誰の考えにもちゃんと耳を貸す。
誰よりも仕事に厳しいし、誰よりもチャーミングだった。
若手たちは師匠に目をかけてもらおうと必死に取り入ろうとした。
私はそういうのがとても苦手だったし、そうやってみんながわーわーやっているのを見ると余計にイヤになってしまう。

私は決して競争というものが嫌いではなかったように思う。
運動会の徒競走も、いわゆる受験戦争も、就職活動も、もちろん多少のストレスはあったものの、勝ってやるぞという気持ちのほうがずっと強かったし、何度も負けはしたが、それ以上に勝ち越してきたと思っていた。
でも仕事を始めてからの、職場の中での競争にはちょっと心が折れそうになっていた。
真っ向勝負なら負けない、というか、負けないように努力することを恐れない。
だが、社会人における競争というのは実に多様な戦闘スタイルを許容する世界だった。
クライアントの好みを熟知して、狭くて偏ったストライクゾーンにしか投げないスタイル。
あるいは社内の力のある営業やリーダーに取り入って、提案の機会自体を全部押さえにかかるスタイル。
あるいはクリエイティブディレクターの番頭に扮して、他のメンバーの何もかもを取り締まって身動きとれなくする、秘密警察スタイル。
そんな中で、企画で真正面から勝負できる機会なんて、ほとんどなかった。

だから、師匠を取り巻く輪の中には絶対に近寄らないようにしていたのだが、なぜか彼のほうからいつも声をかけてくれた。
廊下ですれ違ったときや、トイレで並んだ時、あるいはわざわざデスクまでやってきて。
みんなで企画を出しあう時も、なぜか私の企画を取り上げてくれることが多かった。
師匠は人のアイデアの良し悪しを判断するときは、ちゃんと理由を話す。
それは、おもんないな、とか、ただそれだけの企画やな、などの一言だけの場合もある。
それでもみんな、彼のひとつひとつの講評をじっと聞いているのだった。
だから、そのうち新参者の私も周りからも認められるようになり、他の人たちからも一緒に仕事をしてみたいと声をかけてもらえるようになったりした。

さて、私は彼のような大人になれているだろうか。
まったくそうは思えない。
師匠に似ていると言われても、まったくそんなことを思えない。
でも、うれしかった。
他の誰に言われるよりも、師匠に、心配していない、と言われてうれしかった。
私はそう思ったので、自分のウイスキーをぐっと飲みほして、そう伝えようと彼のほうを向き直った。
しかし師匠は、隣の席にやってきた、感じの良い女性と話を始めている。
サックスブルーのシャツが似合う、師匠好みの美女だ。
相手のほうもまんざらでもなさそうだから、このセッションは長くなりそう。

私は同じウイスキーでいこうか、ちょっと違うやつにしてみようか、ぼんやりと悩んでいる。