夜中の、お菓子。

イライラがたまって、つい夜中にお菓子を食べちゃうんですよね。

その女は言った。
全体的にふっくらしてはいたが、見た目も声も、インタビュー対象者の属性として知らされている年代の割には若く見えた。
へえ、どうして夜中なんですか。
とインタビューを担当しているモデレータが聞いた。
女は、ううん、とちょっと考えてから、そりゃまあ、夜中だけが一人の時間というか…ともじもじしながら答えた。
家族がみんな寝てしまって、ああ静かになった…って思ったら、ゆっくりしたくなって、お菓子にも手が伸びちゃって。

「一人の時間、というのはポイントかもしれませんね。家事から解放された状態ですからね。」
後輩が何やらかしこそうにコメントをしている。
私はマジックミラーの向こうで女が話し続けている様子をぼんやりと眺めていた。
彼女は一体どういうつもりでこのグループインタビューに応じたのだろう。
平日の昼間だから、ちょっと都心に買い物に行くついでだろうか。
それともわざわざこのインタビューに参加するためにきれいな服を着て、化粧をして、時間をかけてやってきたのだろうか。
そして今日も、家族が寝静まった夜中に、一人でスナック菓子をポリポリとかじるのだろうか。

また夜中にポッチしちゃったの。
私の別れた恋人は、よくそう言っていた。
夜中に通販サイトで服やら雑貨やらを買ったことを報告し、それを次に会った時にその服を着てきたり、あるいは自宅に届いた品物を写真に撮って送ってきたりした。
私はすっかりそういった彼女の行動を、本人が楽しいからやっているだけのことだと思っていた。
だが実際はそうではなかったらしい。
私たちはお互いに結婚資金を貯めようという話をしていた。
私は元々そんなにお金を使うほうではなかったので、あえて貯めようと思わなくても、わずかではあるが一定の金額が貯まり続けていた。
だから、あまりその約束に対して強い義務感を感じていなかった。
だか彼女のほうはそうではなかったらしい。
できるだけお金を使わずにやりくりしようと無理をしていたようだ。
だから、ついネットサーフィンをしているときに魔が差して買い物をしてしまう度に、罪悪感を感じ、私に報告をするようにしていたらしい。
私はそのことを、彼女から別れ話を切り出されるときまで知らなかった。
たぶん、知らなかったことはそれだけじゃなかったのだろう。
いや、正直に言えば、私は彼女について、ほとんど何も知らなかった。
そしてそれは、その人がいなくなってはじめて気づくことなのだ。
だいたい、いつも。

「いやあ、今回はあまりいい発見はなかったですね。」
帰り道、後輩は首を左右に揺らしながら、口笛でも吹き出しそうな雰囲気で言った。
今日のグループインタビューを提案したのは後輩だった。
彼はとても繊細な人間なので、インタビューの首尾が良くなかったのをとても気にしているのだろう。
対象者の選定が良くなかったのか、質問の項目が良くなかったのか、そもそもの調査設計に問題があったのか。
まあ、たぶんその全部だ。
それは本人が一番よくわかっているはずだ。
だからあえて他人事のように言うのだろう。
彼なりの謝罪の言葉なのだ。
私は、そうかな、それなりに収穫はあったと思うよ、と言ってから、彼の肩を軽く叩こうかどうか迷ってやめた。
同情されている、と思わせるのもよくないだろう。
私は彼の肩を叩く代わりに、ちょっと早いけどメシでも行こうか、と誘うことにした。
すると彼は私のほうを振り返って、とても申し訳なさそうな顔をしてみせて、返事をした。
「あ、すみません、このあと彼女と会うんで。ほら今日は金曜なんで。また行きましょうね。」

後輩と別れてから、私はどこか行き当たりばったりで入ったことのない居酒屋にでも入ってみようかと思い、駅までの道をゆっくりと歩いてみた。
だがどこもまだ準備中か、開いていたとしても一人で入りづらい雰囲気の店ばかりで、気がつくと電車に乗り、自宅の近くまで帰ってきてしまっていた。
いつものコンビニに寄って、あまり普段は買わないような、酒のつまみになりそうなものばかりを選んでみた。
燻製のうずらの卵、パックに入った風呂吹き大根、さきいか、コンビニのプライベートブランドのマークがついた袋に入ったチーズたら。
ビールは何を買ったらいいのかわからなくて、とりあえず一番高いやつと二番目に高いやつ。
私は家で酒を飲んだことがほとんどないので、どんな銘柄があるのかもよくわからない。
店だと、生あ、と言えば生ビールが運ばれてくるだけだ。
それがどこのビールなのか、気にしたことがない。
私のそういうところもイヤだったのだと別れた恋人は言っていた。
自分以外のことに何の関心も持っていない。
あなたが大事なのは自分だけだと。

帰宅すると、先にシャワーを浴びてから、冷蔵庫にしまっていたビールの缶を開けてみた。
ぷしゅっ、という景気のいい音が静かな部屋に響き渡った。
それで、私は音楽を流すことを思いついて、マイルスデイビスをかけてみる。
ちょっと体が軽くなった感じがする。
缶のままビールをすすってから、しまった、これはグラスに注ぐべきだったな、と思ったけど、まあそれはそれでいい。
ビールをちびちびとすすりながら、今日の夕食をコンビニの容器から皿に移し替えていく。
その作業をしているあいだが一番楽しかった。
いざそれらを口に入れてみると、どれも一度食べたことがある味ばかりで、私の期待を超えるものではなかった。
いや、そもそも私は何かを期待していたのだろうか。
狭い部屋で缶ビールを缶のままで飲み、コンビニで買ったつまみを並べ、古い音楽を聴く時間の中に、何が期待できるというのだろう。

私は、あのグループインタビューにいた、夜中にスナック菓子をついつい食べてしまう女のことを思い浮かべた。
うちは子どもが二人いるんですけど、それに夫というか、もう一人子どもがいるようなもんで…。
彼らがみんな寝てしまって、静かになったキッチンで、一人でスナック菓子をポリポリと食べている。
夜中に食べたら太るんじゃないかと気にしながらも、手が止められず、ついつい一袋食べてしまう。
幸せな家庭。
幸せな生活。
それでも、ついつい、食べてしまう真夜中のお菓子。
後輩は今頃、恋人と愛しあっているのだろうか。
それとも、本当は一人になりたくて、あんなことを言ってみせたのだろうか。
よくわからない。
私が大事なのは、私だけなのだ。

それにしても、と思った。
あの調査設計はほんとにまずかったな。
あれをちゃんと修正するように強く言わなかったのは、よくなかった。
インタビューは来週もまだ残っている。
ちょっとだけ助けてやるか。
私はパソコンを取り出して、修正案を作り始める。
別に絶対に必要な作業じゃないし、後輩がこれを受け入れるかどうかもわからない。
自分が気になるからやるだけだ。
そう自分に言いながらキーボードをパチパチやっていると、また気分が良くなってくるのがわかった。
みんな、自分の仕事をやっているだけだ。
後輩も、コンビニのおつまみも、マイルスデイビスも。
あの夜中にお菓子を食べる女も。
私は、私の仕事をやればいい。
そこに別に意味はない。
この作業が終わったら、買ったまままだ読んでいなかった長編小説に手でもつけるか。

夜はまだ始まったばかりだ。