感じて、生きる。

朝、久しぶりに近くの公園を歩いてみたら、緑は思った以上に生い茂っていて、大きな虫も小さな虫もめいめいの羽音を響かせてぶんぶんと飛び回っていて、すっかり騒がしくなっていた。
命が一気に暴れ出している。
そうなると、これまでの静けさが恋しい気もするが、これはこれで世界の今の様子なのだ。

人間たちも同じように新年度だ、新学期だと騒がしい。
ぼくが4月が苦手なのは、新しい環境に適応するのが得意ではないからなのだろうけど、たくさんの人が集まって同じようなことをするのが昔から苦手なのもある。
今でこそ個性とか多様性とかが大事にされるようになってきたけど、昔は人と違うことをするというのはデメリットのほうがずっと多かった。
ぼうっとしていて行進の隊列からはみ出すと教師から蹴り飛ばされたし、授業中にしゃべりすぎてうるさいとすぐに廊下に立たされた。
人と違うことをしても怒られなかったのは、何かの文章を書くときぐらいだった。
何かの感想文でも、日記でも、作り話でも、文章を書いているときは他の人たちと足並みを合わせようとしなくてよかったし、何かの拍子にほめられたりもした。
そう考えると、ぼくにとって文章を書くのは、人と同じようなことをしなくてもよい、数少ない逃げ場の一つなのだろう。

話は変わるが、ぼくにはもう一つ苦手なものがあって、それは流行をおさえることである。
広告業界で働いているのに大丈夫かと思われそうだが、本当だからしかたがない。
時々、夜に飲み会に参加すると、みんながとても流行に詳しいことにびっくりする。
広告業界の人だけでなく、わりと飲み会で話題の中心にいるような人たちは、みんな世間で流行っていることにとても詳しい気がする。
ぼくは自分が興味のあることにしか興味がないので、他の情報が全然入ってこない。
最近人気のタレントとか、アナウンサーの名前とか、まったくわからない。
アンテナを張っている範囲がとても狭いのだ。
ただまあ、それで損をしているようにはあまり思わないし、本当に必要になったらちゃんと調べるので、そんなに困ったことはない。
いや、ひょっとしたら何か大損をしている可能性もあるが、本人が気づいていないのでしかたがない。

いつからそうなったのか、よくわからない。
とにかく、いつの頃からか、ぼくは自分の興味の範囲を狭め、その範囲の中をじっくりと観察したり、違いを味わったりするようになった。
ぼくにしか見えていない風景や、人物や、生き物が存在していたし、今ではだいぶ数は減ったけど、やっぱり見えている。
ぼくにとって重要なのは、そういった見えないものの気配を感じ取ったり、得体の知れない何かが隠れているような場所に足を踏み入れることであって、決してテレビや動画サイトで何が流行っているかという最新の情報ではない。

ぼくはそのことを学生の頃に短い小説にした。
自分にしか見えないもの、自分にしか聞こえない声、それを他者と共有することの難しさ、だけど言葉という方法で残すことはできるということ。
あの頃のことは今でもはっきりと思い出せるし、ぼくの根本的な部分は、そこからほとんど変わっていない。
当時のぼくからは想像もできないほど、人生の中で色んなことを経験してきたにもかかわらず。

ぼくは今でも、感じながら生きている。
世界は他の人たちが言うほどきれいに区別されていない。
公園に出かけたときだってそうだ。
一体、どこからが公園で、どこからが公園でないのか。
どこからが虫で、どこからが草なのか。
そしてどこからが人間なのか。
そんなあいまいな世界を感じ、味わい、生きている。
ぼくにはそういう生き方しかできないのだ。
そこから無理に離れようとする必要はない。

自分の見える世界を信じてやっていけばよい。