がんばることは、たのしいことだ。

 

 

 

なんて言ってしまうと、ブラックな労働を賞賛しているようで、きっと歓迎されないだろう。

 

 

 

本当は、がんばることは、たのしい、と言い切るには色んな条件が必要だろう。

特に、それが本当に自分自身の意志なのかどうか、というのが一番大事だけど、ここでいきなりつまずく。

いったいどこまでが自分の意志で、どこまでが誰かの思惑なのかがよくわからないからだ。

サラリーマンが仕事をがんばろうとしているとき、そもそも会社から業務としてやらされているのだから、それは完全に自分の意志かと言われたら、そうとは言えないだろう。

だけど仕事をしているうちに本気になってきて、もっと良い成績を上げたいとか、もっと技術を向上させたいとか、そうやってがんばるのは、これは自分の意志といえば、自分の意志だ。

 

会社のおそろしいところは、自分のがんばりに対して疑いを持たなくなることだ。

会社に貢献することなら、どんなことをがんばったって、がんばった!と言えるから、安心してがんばれる。

自分は何か、疑いもなく大事なことについてがんばってるのだ、と思えるのだ。

だけど実際は、そのがんばりが空回りしたり、いくら会社の貢献しても十分に評価されなかったりして、そこでぼくらは苦しむ。

 

話は変わるが、ぼくは、キャンプが苦手だ。

キャンプの準備をせっせとやって、虫がいっぱいいて清潔なトイレもない山の中にわざわざ行き、そこでうれしそうにテントを張ったり、米を炊いたりして、後片付けにも文句を言わずに黙々と取り組んで、1円の対価すらもらえない。

いったい何が楽しいんだろうと思ってしまう。

だけど、たぶんキャンプが好きな人は、何かの対価のためにがんばってるのではなく、自分の意志でキャンプを遂行することをがんばる、それを楽しんでいるのだろう。

 

まあ世の中、会社の仕事と自発的なキャンプの2つにきっぱりと分けられるものでもない。

ほとんどの人はその中間あたりで落としどころを見つけて、なんとかがんばったり、がんばらなかったりしている。

だけど、ぼくはやっぱり、がんばることは、たのしいことなのだと思う。

自分で目標を決めて、ああでもない、こうでもない、と試行錯誤して、わずかに光明が見えたとき、そこにはたまらない喜びがある。

 

問題は、そのがんばりを誰かが利用しようとすることだ。

会社のため、お金のため、家族のため、色んな理由をつけて、人のがんばりを利用しようとする。

それについて思うのは、結局、何かのためにがんばるのはやめたほうがいい、ということだ。

自分ががんばりたいからがんばる、それだけであって、それ以上の何かが、がんばることの中にあるわけではない。

だから、よくがんばったねとか、あなたのがんばりに感謝、とか言われたって何も感じる必要はない。

報酬はもう、自分ががんばった時点で与えられているのだ。