感じる時間を、つくる。

ぼくはとても感覚的な人間である。

しかし、それをつい隠して、まるで論理についても理解があるようなフリをしてしまう。
そのうち、自分自身もそうやって自分を偽っていること自体を忘れてしまう。

今週、いくつかのことをきっかけに、自分の正体について思い出すことができた。
ぼくはとても感覚的で、物事の変化を肌で感じとり、直感を使って判断し、体が勝手に動き出す。
そういった感覚人間が気持ちよく日々をすごすには何が必要だろうか。

まずは、一日のうちで「考える時間」だけでなく「感じる時間」を十分にとることが必要だろう。

感染症で出社ができない頃は、朝、近くにある緑が多い公園を歩くようにしていて、その時はとても調子が良かった。
鳥の声やなにかの木の実が落ちる音、土を踏みしめるときの心地よい感触が、ぼくの感覚に栄養を与えてくれていたのだと思う。
しかし最近は、自分が取り組んでいる仕事の成果を急ぐあまり、朝の散歩はまったくやっていない。
一度、夏ごろに挑戦してみたが、暑いのと蚊が多いので閉口し、それっきりになってしまった。

でもまあ別に緑の中を歩けないからといって、感じる機会がまったくないわけではない。
音楽を聴くのもいい方法だろう。
若い頃はいろんな音楽をあてもなく聴いていた。
働き出してからは、純粋に音楽を楽しめなくなって、そのうちほとんど聴かなくなった。
この数年、村上春樹さんの『村上RADIO』を聴くようになってから、また音楽が自分の世界に戻ってきた。
子どもたちがYouTubeで流行っている曲も教えてくれる。
それらもとてもよい。
アニメの曲もよい。

妻のすすめで、子どもたちと一緒に合気道の稽古を再開したのも、とても幸運だった。
自分はもう年だし、あちこちガタがきているので、もうこれ以上うまくならないだろうと思っていたのだが、まだまだ改善の余地があって、稽古に終わりはないなと感じる。
子どもたちがどんどん上達していく様子を見られるのもたのしい。
稽古を通して、仕事とは違う人たちと一緒に汗を流す時間もたのしい。
最近は、仕事中も、ちょっと時間ができたら5分でも1分でもいいので黙想をする。
それでだいぶイライラやモヤモヤがマシになる。

そうやって十分に感じる機会を作ることができれば、自分を無理におさえこむことが減る。
自分をおさえこまなければ、もっと自由に発想ができるようになるし、もっと心地よく物事に取り組めるようになる。
そうすればきっと周りも気分よくすごせる…
と思うのだけれども、まだそこまでの境地まではいけていないなあ。

でも、そういう日をちょっとは増やすことはできるような気がする。
そのためにはまず、自分自身を受け入れることから。
一度できたらもうやらなくていい、とかではない。おそらく。
毎日、毎朝、毎晩、毎回、あらためて自分を受け入れる。
今日はどこか痛いところがないかとか、何かチクチクする場所はないかとか、自分に聞きながら、ゆっくり受け入れていく。

そんな感じで、しばらくやっていこうと思う。