内発的に生きているのか、外発的に生きているのか。

ta-nishi.hatenablog.com
たにしさん(id:Ta-nishi)のこの記事を読んで、なるほどなあと思った。
ちょうどぼくも「内発的動機」というテーマについて考えていたタイミングだった。

「内発的動機」とは、興味とか探求心のように、人の内側からの要因によって生まれる心理状態。
一方で「外発的動機」とは、人の外側からもたらされる要因によって行動への意欲が高まるような心理状態、らしい。

しかしまあ、ざっとこれらの言葉をインターネットで検索してみると、「いかにして人を動かすか」という文脈の記事ばかりで、「いかにして自分自身が生きるか」ということについてはあまり出会わない。
たにしさんは「いかにして自分自身が生きるか」という文脈の中で「内発的動機」という言葉を使っておられるようにみえる。
そこには、インターネットの世界だけでなく、多くの人がその人生自体を「内発的動機」で生きていないのではないか、という問いが投げられているように感じた。
お金のため、出世のためという資本主義的な「外発的動機」を与えられて、自分の人生を生きている「つもり」になっているのではないか、という問い。

ぼくはこの問いに直接答えることはできない。
年を取っていく中で、自分の人生のどこまでが「内発的」で、どこまでが「外発的」なのか、わからなくなってしまった。
あるいは、それを区別することをあまりしなくなってきたというか。

若い頃は、ぼくは徹底的に「内発的動機」の人だったと思う。
自分のやりたいことしかやらない。
イヤなことや、やりたいことは、その先にやりたいことがある限りにおいてはガマンして受け入れるし、歯を食いしばって進む。
でも、それがない場合は、いくら金が儲かるとか出世するとか言われても、まったく関心を持てなかった。
それが弱ってきたのは、お金や出世という、若い頃はどうでもよかったものが急に気になってきた頃からだろう。
そしてそれは、広告クリエイターというキャリアをあきらめて少ししてからなのかな、とも思う。
「内発的動機」を見失ったから。
それからけっこう長い時間を経て、あらためてぼくの「内発的動機」は回復したと思うけど、一方で、資本主義的な「外発的動機」の影響は相変わらず受け続けている。
いつも、その両方が自分の中にあるし、あまりはっきりと区別していないように思う。
なんというか、どっちを入れてもそれほどイヤだと感じなくなってしまった。

もちろん、受け入れられないことはたくさんある。
だが、そこまでイヤでなければ一度受け入れてみる、という感じになってきた。
こだわりがなくなったのかもしれない。
やりたくないこともあれば、やりたいこともある。
イヤなこともあれば、面白いこともある。
なんというか、そういうものが色々と混ざっているのが人生なんじゃないか、という予感がする。
混ざっている状態を、それなりに心地いいと感じるというか。

ぼく自身がそういう状態なので「どこまでが内発的動機で、どこまでが外発的動機なのか」というのが、正直よくわからないところがある。
むしろ、自分の意志だと思っていることさえも、実はもっと違う、まったく自分からは離れたところにある要因によって、そう思わされている可能性もある。
でも、それでもいいのではないか、とさえ思う。

結局、ぼくらは本当の意味ですべての関係性から解き放たれて、完全なる内発的なものに突き動かされて生きる、ということはできないような気がする。
人間というのは関係性の中で生きているからである。
人間関係だけではない。
人間も含めた様々なものとつながり、相互に作用しあって、いまここにいる。
そのこと自体を受け入れて、よく味わいながら生きていくほうが、いまの自分には合っているのかなあと思う。

ぼくは長い間、二者択一の時代の中にいたと思う。
勝つか、負けるか。
続けるか、あきらめるか。
有名になるのか、無名のまま終わるのか。
変わるのか、変わらないのか。
しかし今は、「どちらでもない」、いや「どちらでもある」世界にいるような気がする。

このブログを書いているのも、内発的なものなのか、外発的なものなのか、もはやよくわからない。
そんな世界で生きている。