「何のため?」からの、解放。

先日、合気道の稽古中に「あ、この感じ、なつかしくて、楽しい、この感触って何だろう…」と思う瞬間があった。

冷房も効かない古い道場なのでじっとしているだけで暑いし、年季の入った畳は石のように固いし、おまけに年のせいで稽古する前から体はあちこち痛いし、特に楽しい要素はないはずなのだが、ふとそう感じたのだ。

なんというか、ぼくはいつのまにか、自分のやることに対して「何のためにやるのか」を異様に気にするようになっていたように思う。
この仕事をやるのは何のためか、この勉強をするのは何のためか、という感じで、何かちゃんとした目的がないとダメ、という強迫観念にとらわれてしまっていて、長年やってきた合気道ですら何のためにやるのか、みたいに考えるようになっていた。
いやまあ、表向きには色んな理由は言える。
護身のためとか、健康のためとか、集中力を鍛えるためとか、まあなんとでも言える。
でも、そう考え始めると、とたんに合気道の稽古はがんばらないといけないもの、しんどいもの、面倒なもの…となってきて、行くのが億劫になってくる。

ところが先日、久しぶりに「ああ、稽古って楽しいな」と感じたわけである。
何かきっかけがあったとか、具体的にこういうことをしているときに、という感じではなく、急にふわっとそういう感覚がやってきた。
そして、その感覚が何に似ているかというと、それは色んなものに似ているのである。

たとえば駆け出しのコピーライターの頃に、若手同士で企画を出しあっていたとき。
大学生の頃に、コピーを書く学校に通っていたとき。
子どもの頃に、塾の自習室で黙々と問題集を解いていたとき。
どれも、何か明確な目的はあったけれども、それ以上に、その場でやっていることに没頭し、全身で楽しんでいたように思う。
また、あ、これならなんとかなるかも、という手ごたえもあった。
そこも重要だろう。

いつのまに、ぼくは「これは何のためにやるのか?」という問いに対して、「楽しいから」とまっすぐにこたえられなくなったのだろう。

楽しいからやる。
これほど純粋で、文句のつけようのない目的というのはなかなかない。

なぜ「楽しいから」ではダメだと思うようになったのか。

楽しいだけじゃ、儲からない。
楽しいだけじゃ、役に立たない。
楽しいだけじゃ、将来困る。

なんとなくぼくは「楽しいということを純粋に目的にしていると、いずれ何かよくないことが起こる」という、得体の知れない不安のようなものを抱えてしまっているように思う。
その不安がどんどん大きくなっていって、気がつくと、むしろ「楽しいから」を排除しようとしていたりする。
これは今に始まったことではなく、割と昔からあったように思う。
原因はよくわからない。
どこかで「楽しくないこと、辛いことをがんばらないと、将来報われない」という思いこみを持つようになってしまったのかもしれない。
そこはよくわからない。

しかしまあ、ぼくにとって今重要なのは、ぼくの過去に何があったかを知ることではない。
重要なのは、どうすれば「楽しいからやる」という時間を増やしていくことができるかだ。
それをちょっと考えてみよう。

①習熟

まずは、合気道の稽古中に感じた、あの感じをどう再現するか。
おそらく、あの時、ぼくは一瞬だけど、不安から離れることに成功していたのだと思う。
この技をうまくやれなかったらどうしよう、ケガをしたらどうしよう、あるいは稽古が終わり週末が終わったあと、週明けの仕事で失敗したらどうしよう…
そういう不安から離れることができた一つの理由として、習熟、というのもあるかもしれない。

ぼくは今の道場に通う前、別の道場に子どもの頃から通っていて、そこで大人になってから段位を取得し、それからも長らく同じ系列の道場で稽古を続けていた。
その頃は稽古が楽しくて、ほとんど毎回新しい発見があった。
しかし、今の道場で教わることは、これまでとは何もかもが違っていて、その違いを受け入れるのにすごく苦労していた。
また年を取って、あちこちが悪くなっているので、思ったように体が動かないこともストレスだった。
ところが最近、何がきっかけなのかはっきりわからないが、「あ、こういうことかも」と感じることが増え、体もこれまでとは違った動きをするようになってきた。
そんな中での、先日の「ああ、稽古って楽しいな」なのだろう。

となると、やはり物事にはそれを習熟するまでの時間というものが必要であり、楽しくなってくるまでは色々と不満はあっても地道に続けていくことが大事なのかもしれない。

②素直になること

これはけっこう難しい。
特にぼくの場合、自分は有段者なのだ、それなりに一通りちゃんと稽古をしてきたのだ、というつまらんプライドがあったせいで、違う教えを受け入れることができなかった。
そうなると、習熟のスピードは圧倒的に遅くなる。
だから楽しくない。
それで余計に話を聞かなくなる。
この悪循環。

そこで役立ったのは、段位を捨てたことだと思う。
長年努力して取得した段位を捨てて、一から審査を受け直すことにした。
これはけっこう勇気のいることだった。
審査を受けるには多少のお金もかかるし、そもそもこれまでやってきたことと同じプロセスをもう一度やり直すわけである。
ぼくの場合は、その話をしたところ、妻が、ええやん、やってみたら、と後押しをしてくれたのが大きかった。
おかげでしょうもないプライドをようやく捨てることができた。

心をオープンにして、素直に吸収するモードになる。
これも「楽しいからやる」時間のためには必要だと思う。

③仲間

心がオープンになると、仲間がいることのありがたさに気づけるように思う。
それまでは、有段者の先輩たちのことを「何かこれまでと違うことを押しつけてくる人」のように思っていた気がするし、初心者の人たちに対しては「この人たちと一緒にされたらイヤだ」とも思っていた。
今は、どちらの人たちも、とてもありがたい、かけがえのない存在だ。
一緒に学ぶ人たちがいるからこそ、稽古は楽しいのだ。

とまあ、ちょっと考えてみただけなので、他にも色々とポイントはあるのだろう。
それは引き続き、探していきたい。

とにかくそうやって「これは何のためにやるのか?」の呪縛から、少しずつ自分を解放していけたらなと思う。
楽しいからやる。
それでいいのだ。