機嫌が、悪い。

 

 

 

だいたいは寝不足と湿度のせいだろう。

 

 

 

あとは、物事があまりにも細切れになっていて、時間を空けてから元の場所に戻ってきたときに、その場所でのこれまでのできごとを毎回思い出し、頭だけじゃなく気持ちのスイッチも切り替えないといけない。 

そのスイッチをガチャガチャと触りすぎてレバーがアホになってる。

 

また別の話だが、中学の英語の構文で、知ってることと教えることはまったく別のこと、というのがあったが、あれを色んなところで思っている。

誰でもそうなのだが、自分がこれまで経験してきたことを、そのまま他の誰かに伝えるのは難しいし、得てきた知恵や技術を移転するのはもっと難しい。

ただ、たとえば、多少の質や量は違ったとしても似たような経験をしてきた人や、同じような疑問を持って生きてきた人だと意外とスッと移転できるのだが、ベースとなる共通経験がないと、これはなかなか難しい。

子どもに勉強を教えるときなんてまさにそうで、彼が一体なぜわからないのか、どこまではわかって、どこまではわからないのか、そこがわからなかったりするので、それを探るだけでお互いにすっかり疲れてしまったりする。

 

学ぶのと教えるの、どちらが難しいのか、というと、これは果たして答えはないのだろうけれども、言えることは、いずれにしても、じゅうぶんに時間が使えるかどうか、である。

学ぶためには、たくさん失敗する必要があって、そのための時間を学ぶ者は用意できるのか。

教えるためには、相手が失敗するのをじっと待つ必要があって、そのための時間を、教える者は用意できるのか。

そこが重要な気がする。

 

ぼくはいつも時間がない、時間がないと言っていて、実際に時間はほとんどないのだが、それは結局自分のためだけに使える時間がない、という意味であって、自分以外の誰かのために少しずつ時間を使っていて、それが積もり積もって、自分の時間がないだけなのである。

ただ、中でも人に教える、あるいは人から学ぶ、ということは他のことよりも余計に時間がかかる、それだけの話なのだろう。

 

できるだけたくさんの時間を学ぶことと教えることに使える世の中が、きっといい世の中だと思うし、その余裕がない世界というのは、かなり大変な世界なのかもしれない。

また、学ぶとか教えるとかいうのは、学校のような純粋にそれ自体を目的とするような場でしか成立しないわけではなく、仕事のように、実際に現場でたくさん失敗をしながらのほうが効率の良いものもある。

だからといって何でもかんでも現場で学べばいいかというと、それはなんとなく違うような気がするし、現場一筋でやってきたあとに、一度自分の経験を振り返ったり、それが世界の中でどんな役割を担っていて、どこまでが自分のやってきたことで、どこからが未着手で、そしてその外にどんな余白が広がっているか、そういったことを知る機会も必要だろう。

 

それで、あらためて自分がなぜ機嫌が悪いのかといえば、自分自身が思っているようなスピードで物事が進まなくて、とはいえ自分だけが努力しても何も進まないような状況で、それは人が何かを学び、自分のものにするプロセスを待たないといけないような、長い時間を要するものも多くて、自分ができることがあまりにも少ないことへの苛立ちのようなものかもしれない。

 

しかし、そういう状況の中でぼく自身も学ぶ機会なのだろう。

待つこと。

見守ること。

手を出さないこと。

 

まあ基本的には、寝不足と湿度のせいなのだろうけれども。