エロいのが、好きです。





全裸を見ても、あまりエロいとは感じない。



それは、そのままそこに「ある」ので、ああ全裸だな、という印象を受けるだけである。

あるいは、女性の下着売り場に陳列されている商品を見ても、やはりエロくない。

そこには繊維をよりあわせて作られた物体が存在するだけだ。

ところが、それが「あの子の下着」として認識されると、突然、それはとてもエロいものとなる。

そこには、実際に自分が目にしている物体そのものに関する情報と、「あの子の下着」という目には見えない情報が存在して、ぼくは受け取る情報の差異に対して、エロさを感じるわけである。


だけど、これをもって「エロさとはギャップだ」と断じるのはどうも違うように感じる。

もちろん、2つの情報のギャップによってぼくの心が揺さぶられるのは間違いないのだけれど、それだけではないように思う。


たとえば車である。


ぼくは、曲線の美しい真っ赤な車にエロさを感じる(もちろん持っていない)のだけど、ここにギャップはそれほど存在していない。

もちろん、「車といえば無骨で四角いもの」という情報と、「真っ赤な曲線美」という情報の差異はある。

ただ、それに加えて、「真っ赤な曲線美」の中に生身の女性を無意識にイメージするからこそ、エロいと感じるようにも思う。


つまり、ぼくが何かに対してエロいと感じるときは、そのものの先に「実際に生きている人間」というものをイメージしている気がする。

全裸の女性を見てもあまり何も感じない理由は、それはすごく逆説的なのだけれども、裸体そのものを物体として見てしまうせいで、生命あるものとして受け取りにくいのだ。


あるいは、男女がものすごいスピードで交接している映像を見ても、まあもちろん多少の興奮は覚えるけれども、特別にエロいとは思わない。

不思議なことだけれど、その周期的な前後運動には、生命が見えない気がする。

本人たちは一番気持ちよくなっている瞬間なのかもしれないけど、むしろその動きは機械的、物質的で、生命のきらめきが感じられないように思うのだ。


そういう意味では、ぼくにとってのエロさとは、生命活動そのものの魅力というよりも、「これからの生き生きとした生命の活動を予感させるもの」の魅力であり、それは、まだ始まっていないできごとなのだ。


ぼくは人生においてこれまでも、まだ始まっていない、そしてこれから始まろうとしていることに対して強い関心を持ってきたように思う。

過去よりも現在よりも、少し未来のことにずっと興味を抱いてきた。



これからの世の中は、どうなるのだろう。



そうやって想いを馳せる未来は、ぼくにとってはいつもエロい。

エロくて、ワクワクドキドキする。


そう考えると、ぼくの中で、何かがスッと、一本まっすぐにとおった気がした。


さて、今日もエロい一日をすごせるように、挑んでいこうじゃないか。