何かに迷った時は、あえて怖い人に相談することにしている。
怖い人というのは、ぼくに対してまったく遠慮なく意見をしてくるし、ちょっとその人の考えと合わない言動があるとそれを厳しく指摘して、徹底的に糾弾する。
そんな人と四六時中一緒にいては身体がもたないので、もちろん普段は距離を置いていたり、もうすっかり疎遠になっていたりする。
おそらく、怖い人というのは、自分で怖い人になろうと思ってそうなったわけではない。
ただその人は、とにかく自分の中に明確な価値観や判断基準があって、それを自分自身に対して非常に厳しく課していることが多い。
で、あまりにそれを厳しくやりすぎてしまって、ついつい相手にも同じ厳格さを求めてしまうのである。
そして気がつくと、相手の過ちや怠惰を指摘し、厳しく追及してしまうのだ。
もちろん、そういうことを繰り返しているうちに、自分が周囲から恐れられていることや、煙たく思われていることに本人も気づく。
だからといって、己の信じる道を捨てるわけにはいかないので、自分の信念とは合わない人間と出会っても、つい怒りそうになる気持ちをグッとこらえるのである(そして眉間だけがピキピキと音を立てているのである)。
ぼくは、何か自分が道に迷っているときは、そういう人にあえて声をかける。
もちろん、その人とはそれまでに一度ケンカしてしまっていたり、こっぴどく怒られて尻尾を巻いて逃げたあとだったりすることが多いから、声のかけ方には細心の注意を払うけれども、実は相談する時のセリフはけっこう簡単だ。
いつもあなたとは意見が合わないので、きっと今回もぼくの考えは気に入らないと思う。だけど、あなたの意見が聞きたいので、一度話を聞いてもらえないだろうか。
そういうとたいていの場合、相手は苦笑して、オレはなんでもかんでも否定するような心の狭いやつじゃないぞと、しかし目の奥に鋭い光をたたえたまま、答えてくれるだろう。
そこでぼくは心臓がドキドキする音が聞こえないように気をつけながら、自分の考えを話してみるのだ。
そして相手はぼくの期待(そして不安)どおりに、自分の考えとは合わない部分を指摘し、厳しく注意をしてくれる。
ぼくはその内容を、おお痛い、痛い、とうめきながらも必死にメモしていく。
相手の言っていることは、正直言えばそのまま受け入れがたいこともたくさんあるけど、しかしそれは、他の多くの人も本当は心の中で思っていることだったり、その仕事なり業界なり、あるいは人としての常識だったりするのだ。
年を取ると、こんな人が周りからどんどん減っていく。
それはぼくが成長した証拠ではなく、面と向かって言われることが減っている証拠だ。
そこで減った分は、陰口や、ぼくの知らないところで決まる評価になってしまっているだけである。
だから、ぼくは道に迷うと、ああもう嫌だ嫌だと心の底からビクビクしながら、怖い人のところへ相談にいくのだ。
だからもし、誰かが冷や汗をたらしながら、緊張した面持ちであなたのところに相談にやって来たとしたら、あなたはその人にとって、すごく怖くて、すごく信頼している人物なのかもしれない。
お望みどおり、厳しい態度で接してあげればよろしい。
それが本当の友情というものである。