世界がどんどん狭くなり、どんどん自由が失われていく時代に。



5歳になる下の子と妻が話しているのを聞いていたら、下の子は、家という言葉を、い「え」ではなく、い「ye(とぼくには聞こえた)」だと思っていたらしい。



じゃあその「ye」とはどんな字なのか書いてみてと妻が言うと、英語の「y」のような見たことのない字を書くので、みんなでへええと言って笑う。
そして妻が、でも本当は「え」なのだと正しい字を書いてみせる。

それ自体は何も間違っていないし、本当に家を「いy」と書いていたら小学校で注意されるだけだ。
だけど、そうやって新しい文字が生まれようとした瞬間が失われたことを少しだけ残念に思ってしまった。

言葉だけでなく、数字や公式や理論といった、世の中で広く共有される知識をぼくらは学んでいく。
ぼくが子どもの頃、そういった知識は、自分がいる狭い世界から自由になるための力となってくれた。
トイレでタバコをくわえた上級生に殴られる生活から抜け出すための扉を開いてくれた。

それからぼくはなんだかんだいって、長く自由を満喫していたように思う。
世界は広く、何かひとつの領域で失敗したとしても、また別のところで勝負ができ、そうやって自分の得意なことを作ったり、そこからまた新しい領域に挑戦することもできた。
だから、いま不満に感じることのほとんどは自分のせいだと思うし、むしろ自分の力だけで到底得られないようなたくさんの恩恵を受けている。

だけどそれは、自分たちの暴力が届く範囲だけを支配していたあの上級生たちから、無事に抜け出せたことだけで満足してしまって、その代わりに別の世界のルールを守り、別の支配を受け入れているだけなのかもしれない。
それはもちろん、目が合ったのに挨拶しなかったという理由だけでトイレに連れ込まれてボコボコに殴られるような世界よりは、ずっとマシなものだけれども。

自由とは何か、なんてことはさっぱりわからない。
わからないが、自分がいまいる場所が辛くて抜け出す、ということができない世界は自由ではないだろう。
一方で、自分がいる場所を少しでもマシなものにする、という態度も自由といえるのか、それとももっと別の言葉のほうがふさわしいのか。

いま、世界はとんでもないスピードで、狭く、窮屈なものになっていっている。
誰もがデータとして扱われ、それぞれの行動、それぞれの能力、それぞれの資産、そしてそれぞれの存在が比較され、優劣をつけられ、評価され、その評価の序列をつけられる。
もちろん、そのおかげでぼくらはたくさんの便利なものを与えられ、ずっと楽に、ずっと快適に生活を送ることができるようになってきた。

しかしこの快適な世界で生きていくには、家は「いえ」と書けなければいけない。
「いye」と書くような人間は、エラーデータとして扱われ、不要な存在と評価され、序列の外へとはじかれていくだろう。
耐えきれずに序列の外から何かを叫べば、すぐに誰かに発見され、大量の非難が集まり、その存在自体が消されてしまうかもしれない。

ぼくにはわからない。
わからないが、少なくとも、家は「いye」と書く可能性も消されないような世界を望む。
人間は、これまでと違う行動を起こす生き物だ。
存在自体がエラーだ。
過去のデータをもとにしか、その人のことを評価できないようでは、ますますぼくらは失敗を避け、敏感に空気を読み、自分の制御できる領域に閉じこもって、息をひそめるように生きるようになるだろう。

もうこの窮屈な世界から脱出することはむずかしい。
ならば、これからの時代においては、今と違う可能性について考えたり、これを他の人と分かち合ったり、そこから新しい考えや新しい行動を生む、そういう態度を自由と呼ぶようになるかもしれない。

いつか、これまでみんなが思っていた「いえ」とはちがう、新しい「いye」を作ることを、誇りを持って、自由と呼ぶようになるかもしれない。