承認欲求は、永遠の少年欲求。

シロクマ先生(id:p_shirokuma)のこちらの記事を読んで、ちょっと思ったこと。
p-shirokuma.hatenadiary.com

たしかに50代になって、わかりやすく褒められなきゃ不安な人…というのは、先生の書いているとおり、うまく大人になりきることができなかった人のような印象も受けるし、あるいはまあまあちゃんと大人になれたにも関わらず、あらためてそういうものを必要とするくらい追いつめられている状況にある人なのかもしれない。
いずれにしても、ぼくは自分が50代になったときに、そのどちらにもなりえるなあと感じた。

まず自分が50代になったときに、うまく大人になりきることができているかどうか。
これについては、まったく自信がない。
というのにはちょっと背景があって、そもそもぼくは30代の後半からつい最近まで、割と真剣に大人になる方法を探り続けてきた。
大人、というよりも「ちゃんとしたおっさん」へと軟着陸する方法といったほうがいいか。
それで、ぼくが今たどりついているのは、世間が考える「ちゃんとしたおっさん」に無理になろうとしている以上、それは永遠に叶えられなさそうだ、ということだ。
「ちゃんとしたおっさん」になるぞ、というのは、若者が直面しがちな「何者か」にならなければ、という悩みとほとんど同じなのである。
それでも、若い頃は世間が考える「何者か」をひとつの目標として努力をし続てみることで、運よく「何者か」になれる人もいるかもしれないし、なれることができなくても、そこで大切な経験を積むことができる。
まあそういう意味では「ちゃんとしたおっさん」を目指して努力するのも、それはそれで大事なことなのかもしれない。
だけど、ぼくにとっては年を取るということはそういう他者から規定された頂上を目指して必死にがんばる、ということではなく、自分で「ああこれはなかなか立派な、ちゃんとしたおっさんだぞ」と思えるようになることだと感じるようになった。
それじゃ、自分で納得できるような年寄りらしさってなんだろう、と考えるに、それはまあ色々とあるのだけど、ひとつは心が自由であること、のような気がする。
もちろん実際は年を取れば取るほど色んなことが窮屈になってきて、自由とは言いづらい。
だからこそ、心だけは圧倒的に自由で、それはもう小学生の頃やそれよりももっと小さい頃よりもフリーでいれたらなあと思う。
むかついたときには素直に腹を立て、かなしいときには素直に涙を流し、ほめてもらいたいときは素直に「ほめて!ねえ、もっとわかりやすくほめて!」と他人に懇願できる、そういう人間が、どうもぼくにとってはひとつの「大人」なのかなあと思ったりする。
承認欲求なんてものは、ぼくの場合は一生なくならないように思う。
がんばったらほめてもらいたいし、良いことを言ったら尊敬してもらいたいし、何もしなくてもその場にいること自体を周りから肯定してもらいたい。
そういうことを素直に表明できるのも、ぼくにとっては理想の年の取り方だと思う。

一方で、厄介なのはそういう年の取り方をしたくてもできない状況がある、ということのほうだろう。
たしかにぼくの観測範囲では、今言ったような、心が自由なおっさんは、最近はずいぶん恵まれた環境にいる人々や社会的なパワーのある人々の中でばかり見かけるようになったような気がする。
以前は、もっと上手に心の中の子どもを解放させている大人たちがいたような気がする。
そういう人たちの居場所が減っていっているのだとしたら、それはすごく困ったことだと、当事者として思う。

ただ、よく目を凝らしていると、意外と多くの大人たちが「立派な大人」あるいは真逆の「大人になりきれなかった残念な大人」に擬態しながら、うまく心を遊ばせてやっていることにも気づく。
彼らの主戦場は人それぞれ違う。
居酒屋やスナックに常連として通い続けるという伝統的な戦い方を守り抜いている人もいるし、釣りやキャンプなど自然の中で心の中の子どもを大解放させる方法論を大事にしている人もいるし、ぼくのようにブログにしがみついて他者からもたらされるほんのわずかな承認の汁をなめつづけている者もいる。
いずれにしたって、みんな知恵をしぼって世間からの監視の目をかいくぐり、必死に自分を遊ばせてやっているのである。
そう、いかに他者に悟られずに子どもな自分を解放させるか、これはもはや、おっさん道、あるいは中年道とでも呼ぶべき修行の世界であり、その奥は無限に続いている。

ただ問題なのは、それが見えづらいということだ。
当たり前である。
彼らは誰にも気づかれぬよう、さもつまらない人生、あるいは堅苦しい人生を生きているかのように擬態しているからである。
(「死んだ魚の目」なんてのは基本中の基本のスキルである)

じゃあどうすれば見つけられるのか?

それについてぼくははっきりした答えを持ち合わせていない。
だけど、一度自分の胸に手を当ててみて、自分の中の小さな子どもの声を聞いてみるのが一番の近道かもしれない。
そして、気の向くままに足を運び、手を動かし、色々と試してみるのがいいんじゃないだろうか。
もっと素直に。
もっと自由に。
そして何かを見つけたら、ぜひぼくにも教えていただきたいものである。

もちろん、こっそり、誰にも気づかれぬよう。