子供は、労働力。


仕事からの帰り道に、8歳の息子に米を洗って炊いてくれと妻が電話すると、いそいそと用意してくれるらしい。



どうも本人は用事を頼まれるほうが、つまらない宿題をするよりも楽しいらしく、今日のごはんはぼくが炊いたんだとうれしそうにしている。

夫婦で働いていると子供たちが朝起きて夜寝るまではずっと戦場みたいな状態なので、子供が家事を手伝ってくれるのは本当に助かる。

子供はのびのび遊ばせなきゃ、あるいは早期に勉強させなきゃ、あるいは情操教育に力をいれなきゃ、とまあどれも正解なのだろうけれど、一人の労働力として家庭に貢献する、というのも立派な子供の役割だと思う。

誰かの役に立ってる、頼られている、という実感があれば、ちょっとやそっとのことなら乗り越えられたりする。

それは大人も子供も同じだろう。

ぼくは子供に団体スポーツを教えることはできないが、家族というチームの一員としてお互いに支え合う体験を学びあうことならできる。

別にキレイごとを言いたいわけではない。

ぼくの給料だけでやっていくのが苦しいから必要に迫られて今のような生活をしている。

だから家族それぞれが何かの役割を担い、協力していくしかない、恥ずかしいがそれだけの話だ。

しかし子供たちがそういう環境の中にいるのは、もうぼくたちの子供であるかぎりあきらめてもらわなきゃしかたないし、独り立ちするまではあきらめて、しっかりと労働力を提供してもらわないと困る。

ただそれだけの話だ。

だけどそうやって、同じ課題を共有しながらそれぞれが働く、そのプロセス自体は、生きるというプロセスにまあまあ近いような気もする。

もちろん人間は、もっと不真面目な理由で生きている部分も大きいのだけれど。