叩くスキルよりも、大事な技術。

・最近は、あまりひとつのことについてじっくり考える気になれない。

・なので思いつくことをいくつか。

・結婚のメリットがどうとかいう話題を目にしたので何か書こうと思ったが、それを結婚したくてもできない人が目にしたらどう思うかなと考えて、書くのをやめた。

・同じような理由で、受け取り方次第でマウンティングとか自慢とかに受け取れる内容を書くことにためらいを感じる。

・インターネットのせいで、誰かの幸せは誰かの不幸に、誰かの喜びは誰かの悲しみにつながっていることが目に見えるようになった。

・まあ中にはそれをわざわざつなぎに行ってる場合もありそうだが。

・いずれにしてもそうやって自分の書いたことや言ったことが誰かの不幸や悲しみに踏み込むことになるなら、ブログに書けることなんてほとんどないな、という気にもなる。

・今後は、そういうリスクを背負ってまで書きたいことがある場合や、それを超える恩恵がある場合にしか、誰もインターネットで発言しなくなるのでないだろうか。

・となると、そういったことを気にせずに話したり書いたりできる閉じた場が求められているだろう。

・ただ、閉じた場にももちろん色々と問題があって、その場の人たちが極端な考えに偏ったり、独裁的な人が出てきたりして、快適さを維持し続けるのは難しいかもしれない。

 

・それでふと、ブログには書くだけではなく、読むという方法もあるよなと思う。

・読むとか聞くとか見るというのはどちらかというと受動的、消極的な方法のように思ってしまうが、書くことが十分にできない今、読むことによる表現というのもあるのかもしれない。

・人の考えをパッと聞いて、反射的に文句を投げつけるのとは別のやり方で。

・なんというか、いま、人間が何かを人に伝える表現方法はものすごく発達してきたけど、次はそれを受けとめるほうの技術も豊かになる番なのかもしれない。

・たとえば、黙って相手の言うことに耳を傾け、一切の判断を保留にしてまずは受けとめる、そういった態度も役に立つだろう。

・また、色んな人が色々言ってる様子を見えるようにする技術も便利かもしれない。

・あるいは、なぜその人がそんな発言をすることになったのかを問い直す行為も大切だろうし。

・つまりは、これからは攻めるスキル、叩くスキル、叩き返すスキルよりも、受ける技術のほうに注目してみたい。

・山伏のように、うけたもう、でやってみたい。