生活は、デザインできるのか。

先週、色々な予定が一度に中止になり、急にヒマになった瞬間があった。



もちろん今すぐやらないといけない仕事が中止になっただけで、やるべきことはいくらでもあったのだが、とりあえず返信が必要なメールやメッセージに返事を書き、今後のスケジュールを確認し、それから最新のニュースを眺め、自分のタイムラインを眺めたら、一瞬、やることがなくなった。
それなら小説を読んだりブログを書いたり音楽を聴いたりすればいいのだが、そんな気持ちにもなれなかった。
おまけに1~2時間後には家事を再開する必要があるので、今から何かに没頭するほどの余裕はない。
今考えると、昼寝をすればよかったのだ。
ずっと睡眠が足りていないし、もし足りていたとしても、気持ちの切り替えとして役に立つ。
あるいは軽い運動をすればよかった。
あるいはただぼんやりとすればよかった。
それなのに、ぼくはそのどれもせず、ただひたすら今からどうしよう、とあせっていた。
あせったままで空白の時間はすぐに過ぎ、やらなければいけないことの洪水が押し寄せてきて、ぼくはまたいつもの、ただ忙しいだけの時間の流れへと戻されていった。

あの空白は一体なんだったのだろうと思うに、大量に押し寄せてくる情報に対して必死に反応し、またその反応が返ってきて、それを打ち返し、といった行動をし続けているうちに、それに過敏になってしまっていたように感じる。
だから、急に突然レスポンスが止んだとき、高ぶった神経を休ませるのにひどく時間がかかったのだろう。

コロナの前から、ぼくの毎日はいつも、情報による刺激とそれに対する反応の繰り返しだった。
じっくりとアイデアを考えたり、何かを時間をかけて作ったり、こんがらがった状況を腰をすえて整理したりすることもあるが、いつもそればかりしているわけではない。
むしろほとんどの仕事は、他者からもたらされるメッセージか、反対に自分から発信するメッセージをきっかけとして発生し、その打ち返しが繰り返されていく。
それが軌道に乗るなり問題視されるようになると参加者が増えていき、反復運動は乗数的にふくれあがる。
それを指してぼくらは仕事と呼んでいるが、はたしてそれは本当に仕事なのだろうか、という気もする。

それは仕事だけでなく、生活全般の様式でもある。
子どもの学校からの連絡がメールやアプリで来て、それに対して必要な情報を返す、あるいは確定申告の期限が迫っているというニュースを見て、あわてて書類を揃えて提出する、あるいは今から24時間以内なら半額ですよと通販サイトであおられて、焦って何を買うべきか必死に考えて購入ボタンを押す。
その総体を、ぼくらは生活と呼んでいる。

デザインとか設計とかいう言葉には、この刺激と反応のラリーの効率を上げたり、反対にあえて非効率にすることで、ラリーのあり方を制御しようとする意思を感じるが、なんとなく不気味な印象もある。
他人によって自分の生活がデザインされる、とかなると危険すら感じる。
だが、残念ながら、現時点では、ぼくらは他者によるなんらかのデザインを受け入れながら暮らすしかないし、その中で自分の生活も自分でデザインしなければいけない。

じゃあ、ぼくらはどうやって自分自身の生活をデザインすればいいのだろう。

ぼくは、なんとなく、無秩序との同居を前提にすることが大事なんじゃないかなと思う。
何かの用事のために道を歩いている途中に、おいしそうなパン屋を見つけたり、まじめな仕事の会議をしている最中に、急に人生の謎が一つ解けたり、ぼくらはいつもデザインされた行為から脱線してしまう。
だからといって、脱線を前提にしたデザインをしよう、と言ってるのではない。
脱線というのは、その先にまた新たな脱線が待ちかまえていて、そこからまた脱線が起こり、どこまでも遠くへと飛ばされていくものだ。
そんなものを設計の中に組み込む、なんてことは無理な話だ。
大切なのは、そういった無秩序な世界がまずあって、その中でほんの少しだけ自分でもなんとかできることがあるかもしれない、というくらいの態度なのだと思う。

それじゃ、このコントロール不能な世界の中で、個人なんて無力じゃないか、とも思われるかもしれないけれども、そうは思わない。
一人一人は混沌の大海の中に浮かぶ小舟であっても、ぼくらは同じようにプカプカと浮かびながら、なんとか毎日をやりくりしているのである。
そこでお互いに声をかけあうこともできるし、持っているものを交換することもできるし、刻一刻と変わっていく世界の地図を持ち寄って当面の方針を検討することもできる。
それくらいのゆるい関係がちょうどいいように思う。


まあ、それをデザインと呼ぶのかどうかはよくわからないが。