誰かのせいに、したくない。



正直に言うと、もうそろそろぼくらは、失敗を特定の誰かのせいにするのはやめたほうがいいと、とても強く思っている。



その失敗をしたのが誰なのかなんてどうでもよくて、その原因を見つけて修正することが大事なのだ。

人は必ず失敗をする。

人工知能が頼りにされる時代においては、それが人が人である唯一の意味であって、価値ですらある。

なのに誰かが失敗するたびに「最悪だ!」「お前の責任だ!」「辞めろ!」と言っていては、誰も新しいことに挑戦したいとは思わなくなる。

誰かが失敗したときの正しい反応は「うん、よく失敗した!」「ナイスエラー!」「さあ何が原因だ?」なのだ。


いやいやそんなことじゃ誰も責任を取らなくなって、世の中が回らなくなる、という人もいるかもしれないけど、それにもぼくは懐疑的である。

大事なのは責任感だけであって、責任なんてものはいらないからだ。

たとえば、目の前で誰かが急に倒れたとき、それを目にしたぼくにはその人を助ける責任はない、ないけれども同じ人間として無視するのはちょっとどうかと思う、その気持ちがあるのかないのか、それだけが、その人の行動を決める唯一のカギなのだ。

それをいちいち、はいあなたにはこういう責任があります、そしてそちらのあなたにはこういった責任があります、というように決めてしまうから、その枠からはみ出すようなことは誰もしなくなる。

枠にはめられるのは、とても楽なことなのである。

そうしてぼくらは何のチャレンジもしなくなり、見知らぬ人に救いの手を差し伸べたりもしなくなる。

きっとどこかに、自分以外に、何か別の責任という枠をあてがわれた誰かがいて、そいつがなんとかしてくるだろうと思っているのである。


ぼくは決して責任感という言葉が好きでもないし、その概念もなんだかとても重苦しい感じがして仲良くなれそうにはないけれども、その本質は「まずい、このことについて、自分がなんとかしないと事態は良くならない」という気づきのようなものだと思う。

そして、そう気づいてしまった人は、もうそれに取り組むしか選択肢がないのである。

そうやって取り組まざるを得なくなった人が何か失敗したとして、果たしてその人は「最悪だ!」「お前の責任だ!」「辞めろ!」と糾弾されるべきなのだろうか。

そもそも、その人に責任はあるのだろうか。


この世に生きているぼくらは基本的に全員が、多かれ少なかれ何かを間違っている。

完全に正しい人なんて一人もいない。

誰もが失敗するのだ。

それを全力で否定し、糾弾し、溜飲を下げる人というのは、人間という存在を否定し、人工知能という神様を崇め、完全な思考停止を望んでいる人なんじゃないかと思うし、ぼくはそういう人間にはなりたくない。

一体これは自分にしかできないことなのか、それとも他の人のほうがもっとうまくやれるのか、あるいは本当にどうにもならないことなのか、うじうじ、もやもやと悩み、何度も失敗しながら生きていくほうを選びたいと思う。