好きなことがない人は、どうやって好きを見つければいいのか。



みんな努力や運にシビアだ - 意味をあたえる



fktackさん(id:fktack)の言ってることはそのとおりだと思って、ぼくは好きなことを仕事にするのが生存戦略には有効だと書いたけれども、本当に言いたかったのは、その好きなことがはじめからある人はいいけれど、好きなことがない人は、それをわざわざ見つけたり作ったりしなきゃいけない大変な時代が来ちゃってる、ということだった気がしてきた。



それが良いことなのか悪いことなのかわからないし、あるいはひどく極端でマッチョな考え方だとも思うのだけど、しかしもしそうなのだとしたら、好きなことがない人は、どうやって好きを見つけていくのだろう。

ひとつ思うのは、好きという言葉が邪魔をしてしまっていて先の話に進みにくいのだけれども、怒りとか憤りとか恨みとかのネガティブな出発点の場合もあっていい気がする。

たとえば何か文章を書くのが好きな人の場合、もちろん文章を書くこと自体が好きで好きでたまらなくて、それをしていればあとは何もいらない、なんて人もいるのだろうけれども、そもそも何か腹に据えかねていることとか、自分の中だけで消化しきれないモヤモヤしたことがあって、それを解消しようとする方法がわからないから書いている、そういう場合も多いのじゃないだろうか、少なくともぼくはそうである。

あるいは、それをやりたい、ではなく、やらなければならない、と思い始めたら本当の好きのはじまり、なんてことも思う。

コピーライター時代を振り返ると、文章書くだけの仕事なんてほとんど存在しなくて、日中はひたすら雑務ばかりをしていて、たまに文章を書くチャンスが来たとしてもびっくりするくらい退屈な仕事だったり、まったく自由度のないものだったりするのだけれども、それでもなんとか面白いものにしようとあれこれ粘るわけだが、別に誰も面白いものなんて求めていないし、誰もほめてくれないし、そもそもそんなことしたって給料は変わらないし、むしろ進んで雑務ばかりを引き受けている人のほうが最終的には偉くなったりする。

それでも何人かの人間は、やっとのことで日中の文章とは何の関係もない大量の業務を終わらせて、机の上をきれいにしたら、さてやるかと白い紙を出してきて、退屈で自由度のないお題に向かって、ちょっとでも良い文章は書けないものかとうんうん考え始めるのである。

もうそうなってくると、もはや自分がやっていることは好きでやっていることなのか、それとも何か得体の知れない何かに突き動かされて無理やりやらされているだけなのか、もうわけがわからなくなっている。

ここまで書いていて思ったのだが、どうせ人生なんてものは苦しいことの連続であって、しかしその苦しみ方を自分で選ぶのか、誰か別の人に選んでもらうのか、その違いだけのようにも思う。

しかしぼくは人生の苦しみを、その誰か別の人のせいにして生きていくのは耐えられないし、ああこれは自分で選んだ苦しさなのだなあと受け止めながら生きていきたいと思う。

さてそんなことを書いていると余計に、好きを見つけるのはやっぱり大変なことのような気がしてきたけど、もっと簡単に好きと出会う方法もあるかもしれない。

一番手っ取り早いのは、色んな人に会うことだろう。

普段は会うことのないような人と会って話し、自分の話を聞いてもらったり、相手の考えていることを聞くことで、これまでの頭の中には全くなかった世界が見えてくることがある。

正確に言えば、その世界は全く存在しなかったわけではなく、概念としては知っていたことだったりするが、その世界に実際に自分自身が足を踏み入れる、ということを想像したことがなかったものを、あ、ひょっとしてこれオレでも挑戦できることなのかもしれない、とほんの一瞬でも思うことができるようになる、ということだ。

この現象は、好きと出会う、というよりも、好きに気づく、というものに近いと思っていて、もともと自分の中にはぼんやりながらもしかしどっしりと好きはあるのだが、その好きをこの現実世界においてどう生かすかというアイデアはなかなか思いつかないものだ。

それが、全然違う世界で、自分と全然違うことに取り組んでいる人と出会うことで、なんだ、こんな方法もあるのか、と気づく、そういう現象だ。


ここまで書いておいて、じゃあお前の好きは何なんだと言われそうだが、おそらくぼくの根っこにある好きは、一見解けそうにもない難問を自分で勝手に見つけてきてウンウンうなったり、ああでもないこうでもないと工夫するところにあるようで、文章とか表現とかファシリテーションなんてのはそのための手段でしかないように思う。

難問に取り組むというとずいぶんかっこいい言い方だが、ここは「自分で勝手に見つけてきて」というところがミソで、つまり自分の解きたい問題を自分で見つけてこれることにぼくは自由を見い出している。

自由という言葉が出てきたので、そろそろ打ち止めだなと思っていて、さっき苦しいとか苦しくないとかいう話をしたけれども、結局はどんな苦しみをこの人生の中で味わうか、それを自分で選ぶことができる、それが一番の自由だと思っていて、自分が一番大事にしていることのようにも思う。