読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

犬だって言いたいことがあるのだ。

ものごとをひとつ先に進めるヒントについて考えています

イヤなニュースには、反応しない。




ここのところインターネットで、不快だと感じるニュースがいくつかあった。



そういうのを読むたびに、ついカッとなって脊髄反射で何か意見を書きこんでやろうかと思ってしまうのだが、その衝動をグッと我慢して、そっとブラウザを閉じるようにしていた。

カッとなって色んなことを書けば、きっとその瞬間はスッキリするのだろうし、もしその内容を他の誰かにも支持してもらえたら、それ見たことかと溜飲が下がるのかもしれない。

しかしそういうことは一瞬の出来事であり、実際はそのニュースを拡散する手助けをしているだけにすぎない。

例えば、誰かが何か過激な意見を発信していたとして、その過激な意見に抗議する形でぼくの意見を発信すれば、元の意見も同時に発信することになってしまう。

人間というのはなんでも自分の都合の良いようにとらえたくなる生き物である。

もしぼくの抗議文がどこか全然関係のない人のところにたどりついたときに、元の意見を参照して、そちらのほうが自分は賛成だとしてまた別の人に発信することだってある。

あるいは、その過激な意見に対して、ぼく自身が抗議しようが賛成しようが、何らかのコメントをした時点で、情報ネットワーク上で「反応が得られた」という処理を施され、その過激な意見が他のニュースよりも重要な情報として露出されるのを手助けしていることにもなる。

そんなわけで、ぼくは気に入らないニュースは完全に無視する。

無視する以外に方法がよくわからないのである。



そう考えると、普段はとてもおしゃべりなぼくでも「あえて無視している」領域があるくらいなので、きっと多くの人が「あえて無視している」「あえて言わないでいる」部分を持ち合わせているのだろう。

人と話すときは相手が話している内容に対して関心のほとんどが向かうけれども、実際はあえて話そうとしないことのほうが大切だったりもする。

しかしそれはたいてい、相手があえて話そうとしていないのか、それとも単純に思いつかないだけなのか、確認の仕方が難しい。

あえて話そうとしていないことをわざわざ確認するのは大変野暮だし、相手の気持ちを傷つけてしまう可能性もある。

しかしまあ、本当に何かを相手から教わりたいときは、ちゃんと確認したほうがいいのだろう。

難しいところなのだが、「相手の機嫌を損なわずに自分の知りたいことを知る」というのは、なかなか厳しい作業だ。



それで、ここがぼくのよくわからないところなのだが、結局どんな情報でもオープンで、誰にでも使えるようにしていく、というインターネットにおける考え方自体はすごいなあと思うし、今その恩恵を受けながら暮らしているわけだけれど、しかし一方で人間には他人には言いたくないことやあえて言わないでいることもあり、とかくこの人間というややこしい変数を組み込むと、なんでも情報を発信して、なんでも拡散していくことだけが望ましいわけでもないな、と思うのである。

人間は「なんでも知りたい」「なんでも意見を言いたい」「なんでも噂したい」という性質と、しかしあえて知りたくないこと、言いたくないこと、拡散したくないことを抱えているという事情の両方を持ち合わせている。

ぼくは自分のそういう状況をわかった上で、いちいち気に入らないニュースに反応したり、誰かの失敗を過剰に非難したり、評論家のように勝手に評価したりするのは気が進まない。



そんな時間があったら、ぼく自身が、自分でこれはいいニュースだと思えるものを届けられるように、できることをやっていきたい。