ご一緒にハングリーは、いかがですか。

最近は、自分のアイデアを色んな人たちに聞いてもらって、ここがよくわからないとか、ここは面白いとか色々と意見をもらっていて、ありがたい。

よく考えたら、新人の頃はいつもこんなことしてたよなあ、と思い出す。
当時は、クリエイティブ部門に配属された新人は一人の師匠につき、弟子として修行の日々が始まるのが通例だった。
しかしぼくはクリエイティブ部門に行くことができなかったので、誰も師匠がいない。
なので、一人で勝手にアイデアを書いて、色んなクリエイターの先輩たちを訪ね、色々と意見をもらって回っていた。

思えばその頃から、ぼくはいわゆる正規ルートで、丁寧に育ててもらうコースを外れていたのである。
そこで学んだのは、人に教わりたければ、自分から教えを請いに行け、ということだったなあと思う。
なんというか、それが「選ばれなかった者」ができる唯一のことだったのだ。

ところが、いつのまにかそういうハングリー精神を忘れてしまって、自分の不遇を嘆く芸だけが上手くなってしまっていたなあと思う。
ハングリー精神、だなんてこの令和の時代にはまったく似つかわしくない言葉かもしれないし、何か他にもっといい表現があるのかもしれないけど、まあ要はそういうことだ。
つまりは、ぼくは長い間、ハングリーじゃなかったのだろう。
やらないといけない仕事はたくさんあったし、向き合わなきゃならない人生の課題も色々あった。
それが満足のいくものかどうかは置いておいて、それなりにお腹いっぱいだったのだろう。

じゃあ今はハングリーなのか、と言われるとよくわからない。
ただ、新入社員だった頃のような、今は不遇の時代だけど、絶対にチャンスをつかんでやるんだ、というような熱い気持ちがよみがえっている気がする。
そのためなら恥をかいてもいいし、バカにされてもいいし、傷ついてもいい、というような感じ。
周りが見えていない、と言われたらそうかもしれない。
いい年こいて、何がチャンスをつかむだ、気持ち悪いんだよ、と思われているかもしれないし、そもそも客観的に見ればたいしたチャレンジでもなんでもないかもしれない。
不安にならない、といえばウソになる。
だけど、まあそういう目で見られることも「選ばれなかった者」特有の経験であり、だからこそ、そんなに重要な問題ではないと感じる。

ぼくはこの数年、ずっと「上手に年を取る方法」とか「うまく発達課題を乗り越えるには」とか、そういうことばかり考えてきたように思う。
で、それについては、一定の結論を自分なりに出すことができた。
そのうえで、今ぼくが取り組んでいることは、はっきりいってまったく大人げないことだ。
自分の興味ばかり追いかけて、気持ちのおもむくままに、思いつきで行動を起こしている。
でも、今はそれでいいんじゃないかな、と思う。
ぼくの人生には、どうも「いい年こいて」とか「大人げない」とかいう感覚は合わないみたいなのである。

そう、今日はそれが一番言いたいことだった。
これは、ぼくの人生なのだ。
「選ばれなかった」とか「正規ルートから外れた」とかいうのは、ぼく以外の人たちの人生から見た風景でしかなく、ぼくはいつだって、ぼくの人生から選ばれた主人公であり、ぼくの人生という正規ルートのど真ん中を堂々と進んでいけばいいのである。
なんというか、あまりに当たり前のことなので、こんな風に偉そうに書くようなことではないかもしれないけど、あえて書いてみた。

さて、今日も、ぼくという物語を生きることとしようか。